曇りなき眼で見定めブログ

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「鬼滅の刃」(原作)を読んだのでその感想

鬼滅の刃」(以下:キメヤイ)を論じた記事をいくつか見たことがあるが、ふんわりした紹介記事とか、なぜヒットしているのかみたいなマーケティング論とか、作品と絡めた社会批評とか、オタクによる礼賛とか、逆にアンチとか、アニメ技術論(けっこう的外れな)とかそんなのばかりで、ふつうに漫画を読んでの感想・批評をまったく見たことがない。あるんだろうけど、まあそういうのは目立たないのでしょうな。ここは私なりの感想というか批評を書いておかねば、と思った次第。なので書く。今年のうちにね。
 ひとつ言っておきたいのが、最近は作品同士やアーティスト同士を比較して論じるのが厭われる傾向にある。人それぞれの「推し」があるからだ。まあアイドルみたいな個人が対象になったり誹謗中傷に繋がったりするようなケースは比較して貶したりしないよう気をつけるべきだが、ちゃんと礼をわきまえた作品評ならばいいのではないかと思う。批評とか感想を言い合う文化も大切だと思うので。その際、比較というのはとても重要なツールだと私は思う。なのでここではバンバン他作品と比較しますよ。
 全体のおおまかな感想としては、なかなかおもしろかったけれどもあまり好きな作品ではないかな、という感じである。特に3点ほど極めて残念なところがあった。


 まず良かった点をいくつか。
 際立って目につくのがキャラクターデザインやコスチュームデザインの秀逸さかと思う。特に女の子キャラがかわいい。かわいいというかなんというか「ちょうどいい」感じがする。変なフェチやクセが混入していないように思う。この感じを過去に何かで味わったことがあるな〜とおもって考えたところ、思い当ったのは「輪るピングドラム」である。禰豆子の顔はピングドラムの陽毬に似ている気がする。伊之助と晶馬も似ている。とか思っていたがよく見比べてみるとそれほど似ていない気もする。私の鑑賞眼はあまり当てにならん。
 コスチュームや和テイストの柄を使った意匠はけっこう綺麗でかっこいい。作者の吾峠先生はCLAMPとか好きなのかもしれない。「XXXHOLiC」とか。単行本のおまけページで「臨・兵・闘・者」とか書いていたので「孔雀王」も好きなのかもしれない。CLAMPはもともと「孔雀王」の同人誌を書いていたので、そのへんをまとめて履修*1しているのかも。ところでピングドラムのキャラクター原案の星野リリィもBL同人活動をしている。そういった耽美的な作家からの影響を感じる絵柄だと私は思う。しかし吾峠先生は性別も不明なほど謎に包まれた人だし、あんまり憶測で趣味を詮索して決めつけるのは悪い。なのでこういう探りはこのへんにしておく。しかしそういう耽美的なビジュアルは私もけっこう好きで、その感じでいうと私は堕姫の見た目がけっこう好きである。遊郭編は全体に絵が良かった。覚醒した禰豆子の紋様も良かったし。あと悲鳴嶼さんも好きなのだが、もっとオゾマシイ見た目でも良かったと思う。
 しかし単行本のおまけページで学パロをやっているのだから、やはりそういう二次創作的なことが好きな人なのだろうなあとは思う。これはキメヤイ本編にも影響している。なんというか、少年漫画そのものというより、全力で少年漫画のパロディをやっている作品という感じがする*2。これはディスっているわけではなく良い面もある。少年漫画にありがちなガッカリ展開みたいなのがないのだ。吾峠先生はもちろん少年漫画をたくさん読んでいるだろうが、読みながら「ここはこうだったらな〜」と思うことが多かったのではないかと推察する。自身の二次創作的な想像を詰め込んだのがキメヤイなのではなかろうか。でもやっぱりこうやって趣味を詮索して決めつけるのは悪いのでやめておく。私が言いたいのは、少年漫画にありがちな、いわゆる戦闘力のインフレとか、死んだと思ってたら実は生きてた展開とか、やたらと長いサイドストーリーとか、とういう冷める部分が一切ないのがいいところだと思う。
 あと少年漫画にありがちなのが、主人公がなんだかんだで実は天才あるいは秘めた力を持っていて、覚醒して強くなる展開である。これは難しいところで、主人公が天才だとやはり読んでて共感ができないのだが、弱すぎても当然ダメである。その点、炭治郎は日の呼吸を継承しているというまあまあいい感じの範囲の偶然によって鬼に対抗できるようになっている。あとは努力である。これはすごく良かった。さらに人間は鬼に対して圧倒的に不利であるというパワーバランスが最後まで崩れることがなく、力を合わせて知恵を絞って命を掛けて泥臭く闘う。こういう少年漫画は新鮮だった。最終決戦とかシン・ゴジラみたいで、無惨をスパンと斬り殺すのではなく日の光に当ててジワジワ倒す感じが良い。こういう闘い方が最終的に「想いは永遠」というテーマとして顕在化してくるのも良い。またそうやって闘う人間、特に炭治郎の心の声が随時くどいほど挿入されるのだが、臨場感があって良い。


 ここから悪い点。大きく三つある。

 まず全体的に強く感じるのが「これは漫画じゃねえ」である。漫画というよりキャラクターの紹介とイベントの消化を延々と行っているように感じられるのだ。どういうことか。
 この作品の大きな特徴だが、やたらとナレーションが多い。ナレーションで技の解説とかをするのは白土三平っぽくてこれはこれでおもしろいのだが、キャラクターの背景設定をもすべてナレーションで処理していくのには違和感があった。ちょっと踏み込んだことを述べると、吾峠先生という人は、設定を考えるのは好きでもそれを物語に組み込む能力がないのではないかと感じるのである。単行本のおまけページで語られる裏設定の分量がどんどん増えていくのもその現れであるように思える。シナリオの展開もゲームっぽく*3、「ここで炭治郎はこういう気付きを得るためこういうことが起こる」とか「このキャラはここでこれを吐露することで今後の戦いのこういう展開の布石となる」という感じで、物語上必要な設定を機械的に消化しているだけと思える箇所が多い。つまり、物語はあってもドラマがないのだ。キャラクターに何が起ったのかが順番に説明されていくだけで、漫画的なあっと驚くアイデアや絵や物語展開が一切ないまま終ってしまったなあ、という感じの作品である。あまりこういうレジェンドと比べるのもなんだが、例えば手塚治虫とか鳥山明といった人たちはそういう漫画的なおもしろさをよく心得ている。キメヤイを読んだあとで手塚漫画を読むと「漫画ってこうだよな〜」と思う。
 実はこの作品の大ヒットの要因もそこにあるのではないかと睨んでいる。現代では漫画的なおもしろさなんてたいして求められていないのではないかと思うのだ。ラブライブやヒプマイなど、キャラクター設定だけが先行してあとからアニメや漫画になるコンテンツは近年増加している。キメヤイはそれをはじめから漫画でやってしまった作品なのではないかと思う。だからアニメ化やゲームコラボなどメディア展開もしやすく、さらにいえば二次創作もしやすい。これを吾峠先生が狙ってやったのだとしたらたいしたものだが、単に漫画的な演出が上手くないのでそうしていたのがオタクの想像力および創造力を刺激する結果になったのではないかと私は思う。つまりキメヤイというのはSNSでの考察・共感合戦や二次創作合戦を非常に誘発しやすいつくりをしており、それも込みで楽しむべき作品なのだろう。私はそういう楽しみ方は好きではなくあくまで読んでおもしろいかどうかが重要と思っているのでそういうのに乗っかるつもりはない。また、そういう盛り上がりを知らないような、例えば10年後の人間が読んでどう感じるのかは気になるところだ。
 というような「ヒットの秘密」的な考察は好きではないのでこのへんにしておく。
 しかしこの「漫画的演出の拙さ」問題は重要だと思う。例えば私には煉獄さんというのがそれほど良いキャラと思えないのだ。煉獄さんは単行本で言うと6巻の柱合会議で初登場し、無限列車編*4クライマックスの8巻で死んでしまう。炭治郎と会ったのは会議と無限列車の計二日間だけであり、しかも会議では炭治郎のことを殺そうとしている。無限列車でよほどの好印象を残さなければ逆転できない。これが上手くいっていないのである。煉獄さんが有能なのはわかったのだが、具体的に何をしたかと言われるとたいしたことはしていないように思えるし、禰豆子を認めるのも唐突で、以前にキラキラした目で殺そうと提案していた人だから信用ならない。そういう最初の印象が悪かったキャラの好感度が上がる展開というのは胸熱と相場が決まっているのだが、やはりそれが上手くないのだ。乗客200人を誰も死なせずに守ったというが、それも「ただそう言ってるだけ」と感じられてしまう。そこに説得力を持たせるような漫画的に上手い演出がまるでない。しかし、そういったキャラクターの情報さえあればそれでいいというファンが多いのだろうなあ、とも思う。そういう人にとっては、煉獄さんというキャラに「乗客を守った人」「炭治郎の指針となる人」という事実がひっつくことこそが重要なのだろう。ところが私にとっては、そういう印象が形成される前に死んでしまった人、という印象なのである。エヴァのカヲルくんは第弍拾四話で初登場して第弍拾四話で死ぬが、カヲルくんもっと印象的だったように思う。それはエヴァが上手いからだろう。
 ちょっと煉獄さんについてもう少し述べておくと、鬼にならないかと言われたのに対して、人間は老いて死んでいくからこそ愛おしいというようなことを言うのだが、私は「そうか?」と思う。死ぬのは怖いけど永遠に生きるのもなんかイヤ、くらいが常識的な考え方だと思うのだが、どうだろう。つまり煉獄さんの考え方は常識的な考え方よりは深い思想であると思う。ここで述べられたこの煉獄さんの考え方がどこからきたものなのかがよくわからない。回想のなかで浮びあがってくる煉獄さんというキャラのポイントは、強き者の責務をまっとうするということである。これと死ぬからこそ愛おしいということとは関係がないだろう。これはなんだろうか。しかしこれは映画版の予告編で重要そうなセリフとして使われているから過剰に私の印象に残ってしまっただけかもしれない。しかし気になるのが、この作品には基本的に若い美男美女しか出てこないという点である。この作品は本当に生老病死や生きる苦しみと向き合っているかな、とは思った。また、このセリフは人間と鬼の違いが現れているという点ではやはり重要なものである。私はここに拘りがある。これについては次節で。

 第二の点はやや複雑である。私は、この作品の大きな方針というかメインとなるテーマが、途中で変っているように感じたのだ。私は1〜2巻あたりまでの展開は実はものすごく好きである。ジャンプ漫画にありがちな、夢や目標が決まっていてそこに向けて努力する話ではこれはない。否応なく事に巻き込まれていって、生きるために強くならざるをえないという主人公は、非常に現代的と感じられたのだ。しかし、話が進むにつれてそうではなくなっていく。
 キメヤイのような人間と人外がバトルをする作品はけっこう多い。そうした作品は主人公がなんらかの理由で両者の間に立たされるというのがよくあるパターンだ。古くは「デビルマン」で、近年の漫画に大きな影響を与えているのは「寄生獣」であろう。また仮面ライダーシリーズもそういう側面があり、特に平成の「仮面ライダークウガ」なんかはかなりそのテイストが強い。私は「寄生獣」と「クウガ」がめちゃくちゃ好きで、キメヤイもこれらと比べながら読んでしまった部分がある。そしておそらくキメヤイも最初はこういうタイプの作品を志向していたのではないかと思う。
 寄生獣クウガと違うのは、炭治郎や鬼殺隊は鬼に由来する超人的なパワーを持っているわけではないという点である。しかしキメヤイでは、人間と鬼の境界という役割を禰豆子がちゃんと負っている。キメヤイも最初は寄生獣のように「人間と鬼はわかりあえるか」というようなテーマがあったのではないかと思われるのだ。その証拠はいくつかある。まず炭治郎の優しさである。炭治郎は鬼に対しても情けがあり、なかなか殺せなかったり殺しても悲しんだりする。そして珠世さんの存在である。珠世さんは鬼でありながら協力者で、しかも兪史郎という仲良くなれそうなのも出てくる。そして極めつけは胡蝶しのぶさんが姉から託された「鬼と仲良くできるはず」というやつである。しかししのぶさんのこのエピソードは、物語後半では忘れられてしまう。これはちょっと納得がいかない*5。珠世さんもしのぶさんも医学や薬学に精通している。この二人は初めからわかり合うことを想定して作られたキャラなんじゃないかとも思える*6。この二人は最終決戦を前にして共同研究をする。しかしそこのところは不自然なほど描かれないのだ。これはしのぶさんの当初の「鬼と仲良くなれる」という話からすると変である。私はこの部分はこの作品のミスというか失敗した点だと思う。つまり、人間と鬼という種族の対立と交感といったテーマを、当初は予定していたのに途中で辞めたように見受けられるのだ。キメヤイの物語上の原動力は三つあってすなわち「禰豆子を人間に戻したい」「鬼を滅したい」「強くなりたい」だと思うのが、そもそも「禰豆子を人間に戻したい」と「鬼を滅したい」がけっこう相反するものに見える*7。禰豆子もいまや鬼なのだから。
 しのぶさんは「鬼と仲良くする」という希望を炭治郎と禰豆子に託すのだが、これは変である。人間と鬼の最も大きな対立点は、鬼が人間を食べるということである。しかし禰豆子は人間を食べない。これでは禰豆子を鬼とカウントしてはいけないないのではないか。だが禰豆子は人間を食べないことで辛うじて殺されずにすんでいる状態だ。となると炭治郎が最も尽力すべきは禰豆子が人間を食べないように抑えることである。するとそもそも炭治郎がなぜ鬼殺の剣士になったのかが実はよくわからない。よく読んでみると、義勇と出逢って鱗滝さんのところへ行ってあれよあれよという間になんかそういうことになってしまっている。炭治郎は禰豆子を守りたいのだろうか、それとも鬼を殺したいのだろうか。禰豆子を守りたいのであればわざわざ禰豆子を背負って鬼狩りに行く必要はないし、鬼を殺したいのであれば当然禰豆子の存在は邪魔になってくる。ところが禰豆子が戦力になってくるので、この葛藤は解決してしまう*8。そして、禰豆子はけっきょく自力で人間に戻るのだから、禰豆子をどうするかという葛藤もやはりわりと自然に解消してしまう。
 はじめのほうは顕著であった炭治郎の鬼に対する哀れみも、後半では徐々に薄れていく。やはり煉獄さんの死を経験したことが大きいだろう。炭治郎にとって鬼は悪の存在という面がより強くなり、出てくる鬼もやたらと神経を逆撫でするようなことばかり言うようになる。例えば、仕方なく人間を食べてしまうが根は善良な鬼とかが出てきたら炭治郎はどうするのだろう。そういう鬼に対する炭治郎の優しさが試される展開なんかも見てみたかった。しかし作品に対してあまりこういうないものねだりはよくない。取り敢えず、鬼を生み出した無惨が悪ということで話は成立していく。
 想いは永遠という終盤のテーマについても一言ある。それってやはり鬼への怨念が受け継がれていくということでもあり、けっこうおぞましいことだと思う。序盤の炭治郎はそういうのが似合わない人物だったように思う。そこをスムーズにするために必要以上に上弦や無惨が悪として描かれてしまったのではないか。炭治郎が序盤で見せた鬼への優しさはなんだったのだろう。しかし逆に最初からそういうおぞましさに徹しておけばよかったような気もする。お館様とか私はけっこうずっと胡散臭い人だと思っていて、事実お館様の死に方はおぞましくてなかなか良かった。とにかく煉獄さんが作品に陽の影響を与えすぎて、鬼を倒すこと、そのために特訓して強くなることが大正義になりすぎていったと思う。う〜む。これは私が寄生獣ファンだからそう感じるだけかもしれないが。
 あと、なかなか死ねないというのもけっこう辛いと思うのだが、なんかそれがチート能力みたいになってしまっているのもどうなんだろうなあと感じた。「ポーの一族」のバンパネラとか大変そうだし。

 第三の点は私の好みの問題が大きいのだが、この作品の世界観の狭さというか社会性の希薄さが気になった。
 この物語は全体的にどのへんの地方の話なのだろう。吉原は東京だが、鬼というのは全国にいるのだろうか。柱もけっこう全国に散らばっているのだろうか。そのへんがもっと欲しかったと思う。
 鬼というのは1000年間も人を食べているのだが、多くの人は鬼が実在すると思っていないという世界観のようである。鬼殺隊も非公式な組織で、剣なんぞを街で差しているところを見つかってはいけない。しかし、大正時代ともなるとマスメディアも発達しており、鬼や鬼殺隊の存在はそろそろバレると思う。大正という時代の掘り下げが不十分と感じる点はいろいろあった。最初のほうで述べたようにこの作品は意匠がかっこいいとは思うのだが、大正のいろいろな文化のおもしろさはあまり反映されていないように思う。
 キャラクターの紹介的なものばかりが前面に出てしまっているというのをすでに指摘したが、それ故にキャラクターと社会との接点が希薄だと思う。炭治郎たちもだいたい闘っているか蝶屋敷で寝ているかで、生活の匂いを感じない。そもそも蝶屋敷はどういうところにあるのかとか。これと関連してくるが、人類vs鬼というよりは柱&炭治郎たちvs上弦&無惨の戦いに見える。全体として、主人公たちが闘うための御膳立てが整い過ぎているように思う。こういうところもゲームのような人工的な雰囲気がある*9。話のスケールが小さいというか、鬼が社会にとってどれほど危険なのかとかが伝わってこないのだ。ただこれは長所でもあるのかもしれない。そういう社会の反応とかはけっきょく作品にとって邪魔になってしまっているケースも多い。しかし私はクウガが好きで、クウガはまさにその点をリアリティをもって描いたからおもしろかったのだ。
 しかしちょっとずれるが、なんだかんだで炭治郎や禰豆子を本気で排除しようとする人はいなかったのは、こんなことをいうと彼らには悪いが、ちょっと残念だった。私が1〜2巻で感じたこの作品の魅力は、何が起っているのかわからない、人間も鬼も味方ではない、禰豆子もいつどうなるかわからない、という切迫感だった。しかしそのへんのところはわりと大丈夫だった。禰豆子が闘う姿も魅力的なのだが、私としては禰豆子がもっと足手纏いなほうが好きだったかもしれない。「ベルセルク」のキャスカみたいな。やはりバトルのための御膳立てが整いすぎていて、生きる苦難がどんどん軽減されていくのだ。となるとわざわざバトルに身を投じなくてもいいのに…と思ってしまう。どうせ禰豆子は人間に戻るし。
 もう一点。重要な「1000年の歴史」というモチーフも、やはり「言ってるだけ」という感じがする。作中の描写からはそれほどの重みは感じられなかった。
 

 と、厳しめのこともけっこう書いてしまったのだが、こういうのを書くのはけっこう怖い。何故なら、キメヤイという作品には独特の批判しにくい空気のようなものがあるからだ。叩かれるかもしれない。
 いろいろ言ってきたが、これは全体的にはすごく「いい話」なのである。みんな頑張ってる。なんかこういう王道のいい話の欠点を論うのはこころが痛むのである。そういう意味でやはりなんらかの妖しい魔力のようなものを持った作品であり、平成末期から令和初期、コロナ渦という魔の時代を代表する作品であることは間違いない。

*1:この「履修」という言い方は好きではないが。

*2:CLAMP作の「カードキャプターさくら」は、全力で魔法少女もののパロディをやった作品と私は感じている。コスチュームが手作りだったりとか、二次創作っぽい設定が随所にある。キメヤイはそこまでではないのだが、とにかく少年漫画的な設定が先行している感じがあるのである。

*3:とはいっても私はゲームをまったくやらないのでわからないが。

*4:この無限列車編で出てくる炭治郎の無意識の世界の描写もナレーションがくどかった。ああいうところをもっと鮮烈な絵で魅せるのがおもしろい漫画の条件だと私は思う。

*5:しのぶさんはマジで鬼と仲良くする気なんてさらさらなかったのだろうか。炭治郎に伝えてもう十分だったのだろうか。それはちょっと悲しいような。

*6:考えすぎかもしれんが。

*7:「鬼を滅したい」も復讐のためであったり「罪を償え」という杉下右京的な正義のためであったりとややブレている。

*8:この点については次節で。

*9:ゲームなんてやりもしないのにゲームを悪いものの例えでだしてしまってごめんなさい。