曇りなき眼で見定めブログ

学生です。勉強したことを書いていく所存です。リンクもコメントも自由です! お手柔らかに。。。更新のお知らせはTwitter@cut_eliminationで

ゲーデルの完全性定理と不完全性定理

 完全性定理と不完全性定理は名前の割にほぼ関係ない別々な定理だとよく言われる。しかしじゃあどうして対になるような名前が付いているのだろう。歴史的経緯が気になる。不完全性定理は発見から暫く経ってからそう呼ばれるようになったというのは聴いたことがある。完全性定理はどうだろう。一階述語論理の完全性は未解決問題として知られていたからゲーデルによって証明される前から名前はあったのか。なので完全性定理はそう呼ばれる必然性があると思うが、不完全性定理はそんな名前でなくても良かったような気がする。なのに何故か世間では不完全性定理が有名である。何故だろう。人は完全よりも不完全に惹かれるのか。

 さてしかし、完全性定理は「真ならば証明できる」という定理であるのに対し不完全性定理は「真なのに証明できないものがある」とも表現される*1。こうして見ると対になっている感じがする。これらは矛盾しちゃっていないのかとちょっと不安になるがそんなことはない。

 完全性定理のいう「真」はモデルによらない真だが、不完全性定理のいう「真」は標準モデルにおける真である。不完全性定理の証明に登場する証明も反証もできない文は、これを偽にする構造を与えることもできる。例えば \Gamma から証明できる閉論理式は真でそうでないのは偽である、とかすればよいだろう。

 一般的に数学を議論する際の真偽とモデルとか厳密な意味論を考える際の真偽はけっこう違うものなのでしょうな。フランセーンの本で「真」の意味について考察されている。また、あるモデルにおける真とどんなモデルでも成立つ真の違いはロジックに疎い人にはよく分らないのではないかなあと思う。そういう人が不完全性定理を「真だが証明できないものがある」と理解しているようだったら注意しなければなるまい。その「真」の意味はなんなのか、と。

 

*1:これは第一不完全性定理の話で、理論の無矛盾性などもろもろ条件がいる。

フル線形論理のカット除去定理を証明する際のポイント(あんまり親切でない記事です)

 この本で線形論理の勉強をしているよ。

 加法も乗法も量化子も指数も全部入れたフル線形論理のカット除去定理の解説がある。自分で証明を書いていてちょっとポイントがわかった。

 鹿島先生の『数理論理学』では、LKのカット除去定理の証明のために「拡張カット」というのが使われている。

これは弱化があるためにカット除去手続きが上手くいかない部分があるからである。詳しく図を載せたいけど面倒くさいのでそのうち記事をアップデートします。

 しかし線形論理は構造規則が様相論理式に制限されているので、様相のない部分(つまりMALL)ではカット除去が容易にできる。様相論理式だけのための拡張カットのようなものを定義してその場合特有のカット除去を"Lectures on Linear Logic"ではしている。ただし弱化は!と?で左右別々にあるので、拡張カットも左右非対称になる。

 わかりにくいのでマジでそのうち図を載せます。

ジラール先生の"Proofs and Types"の1,2章を(ちょっと真剣に)読む

 私は現代最高のロジシャンはJean-Yves Girardだとガチで思っている。

 ジラール先生の論文や本は、理論的なものであっても個人の論理に対する考えが混入していることがよくあるように思う。時には本線のテクニカルな議論からやや離れたお話のようなことが書かれていることもある。そういうところはテクニカルなロジックの文脈ではあまり取り上げられないが、哲学的には面白そうなのである。そういうのも読んでみるための本記事である。

 ここで取り上げる"Proofs and Types"は、1986〜1987年にパリ第七大学で行われた講義を元にしている。まさに線形論理が誕生する前後の時代である。この時代背景には要注意。フランス語の講義録であったがテイラー&ラフォン両氏によって英訳され1989年に出版された。付録は訳者によるもので、他にも訳者による修正はあるらしい。

 近年のジラール先生の論文は哲学的な度合いを強めているように思える。"Transcendental Syntax"というシリーズなんか私には難しすぎて読めないのだが、それを読めるように、ジラール生の哲学的見解も知っておきたい。今後もシリーズ化していって先の章も読んで記事を書いていきたい所存であるが、今回のこの"P&T"1,2章は特にお話し度が強い。

Chapter 1 Sense, Denotation and Semantics

 いきなりこんなことが述べられている。

Theoretical Computing is not yet a science. Many basic concepts have not been clarified, and current work in the area obeys a kind of "wedding cake" paradigm: for instance language design is reminiscent of  Ptolemic astronomy - forever in need of further corrections. There are, however, some limited topics such as complexity theory and denotational semantics which are relatively free from this criticism.(p.1)

「ウェディング・ケーキ」パラダイムというのがよく分らないので誰か教えてください。しかしプトレマイオス天文学というのはよく分る喩えである。どんどん星の軌道を表す円が体系に付け加わっていった様を言っているのだろう。そして暗にコペルニクスガリレイのような革命がコンピュータ科学ではまだ起きていないということをも言っているようだ。しかし計算複雑性理論や表示的意味論は認めておられるようだ。

 続いて、フレーゲの意味(Bedeutung)と意義(Sinn)の議論が参照される。英語ではそれぞれ denotation と sense と書かれる。

 27 \times 37 = 999

という式では、= の左右は同じ denotation を持っているが、sense は違う。二つの denotation が同じであるということを示す有限の計算プロセスがある。sense が同じだったら計算する意味がない。フレーゲの議論を計算という観点から見るこうした考えがよくあるものなのかどうか私は知らない*1。しかしよくできている。

 文の denotation は真理値である。これはタルスキやブール代数でお馴染みである。ジラール先生はタルスキ意味論をつまらないものとして度々批判する。しかし denotation の概念は勿論 denotational semantics 表示的意味論という素晴しい理論も生んでいる。

 この辺りでジラール先生が多用する二元論図式が現れてくる。ロジック/コンピュータ科学には次のような二元論がある(sense は同じならば denotation も同じ、しかし逆は必ずしも成り立たない、ということから分る通りこれらは対称的でない)。

  1. sense、有限、動的、構文論、証明
  2. denotation、無限、静的、意味論、真理、代数、モデル

この本もこの二元論に立脚しているが、しかしこれらを統合する理論が求められるとジラール先生は言う。ジラール先生の線形論理以降の様々な創造もこうした意識に拠っていると思われるのである。

 sense というのは構文論的なものだというのは確かだが、しかし構文論そのものではないという。3ページ後半でやや抽象的に議論されているが、構文論のレベルでカット除去のような対称性があり、これが実は sense の対称性なのではないか、とのこと。ジラール先生は構文論の「深層の幾何学的不変量」を見つけるべきでここに sense があると述べている。対称性というのが何なのかは分らなかった。

 続いてタルスキの意味論のつまらなさが述べられた後、それと対比してハイティングの直観主義論理の解釈の優秀性が述べられる。タルスキの意味論が denotation に基くものだったのに対し、ハイティングのそれは証明に基いている。ハイティングの解釈として述べられているものは直観主義型理論を読んだ際に出てきたものと同じっぽい。存在命題の証明をペアとするのはハイティングの頃からそうだったのだろうか? 私は知らないし気になる。

 ハイティング解釈の技術的な問題もいろいろと指摘されている。これはゲーデルの指摘をなぞっているのかも。

Chapter 2 自然演繹

 自然演繹が初めから計算的内実を意識して導入される。ジラール先生は対称性を持ったシーケント計算の方を自然演繹よりも高く評価しているようだが、計算的内実が分りやすいという理由で自然演繹が先に導入される。

 自然演繹についてこう書いているのは興味深い。

 Natural deduction is a slightly paradoxical system: it is limited to the intuitionistic case (in the classical case it has no particularly good properties) but it is only satisfactory for the (\land, \Rightarrow, \forall) fragment of the language: we shall defer consideration of \lor and \exists until chapter 10. Yet disjunction and existence are the two most typically intuitionistic connectors!(p.8)

自然演繹の様々な良い性質が直観主義論理にあって古典論理にはないのは確かだが、"limited to the intuitionistic case"とまで言ってのけるのはおもしろい。正規化定理を何よりも重視しているからだろう。またカリー=ハワード対応を考えると結合子を連言と含意と全称量化に限るというのは頷けるが、しかし選言特性や存在特性といった証明論的性質も大事であるということが述べられているっぽい。

 またシーケント計算と違って対称性がないと述べたが、導入則と除去則の対称性はあるとのこと。

 その後は自然演繹の \land, \Rightarrow, \forall 断片が導入され、ラムダ計算やペア-射影関数との対応が述べられている。

感想

 ルディクスについてもちょっと調べていたのだが、

cut-elimination.hatenablog.com

ジラール先生の「証明をベースにロジックや計算を組み立てる」という方針はずっと一貫していることがわかる。二元論(構文論と意味論)の克服というのもルディクスのテーマだが、それも証明の考察の徹底によってもたらされると考えているのだろう。

 また有限性やダイナミクスの強調は線形論理からGoIへの発展を予感させる。というかこの頃からすでに構想はあったのだろうか。

*1:アウディ先生がホモトピー型理論の講義でそんなようなことを述べているような。

ジラール先生の映画批評を読む「千と千尋の神隠し」編

 ジャン=イヴ・ジラール先生は大量の映画短評を書いておられる。ジラール先生のサイトの"alter ego"というところから読める。

girard.perso.math.cnrs.fr

オルター・エゴというだけあって、Yann-Joachim Ringardという変名で書いている。おもしろい。

 フランス語の勉強になるかと思い、ちょっと訳してみることにした。私の知っている映画もけっこうある。とりあえず「千と千尋の神隠し」を読んでみた。上のリンクを見ればわかるが、ジラール先生はホームページにカオナシの絵を載せている。「千と千尋」評を読んだ感じでもどうもカオナシが好きっぽい。

Sen to Chihiro no kamikakushi Le voyage de Chihiro, Hayao Miyazaki, Japon, 2001, 125 mn

Le plus beau film de Miyazaki baigne dans une atmosphère magique. Une rue où passent des fantômes la nuit, un train qui circule sur d’improbables rails baignant dans l’eau et dont les passagers sont d’autres fantômes. Parmi eux, le touchant et poétique Kaonashi (sans visage) qui accompagne la jeune Chihiro.

Les personnages sont doubles, tout comme le kanji qui se lit aussi bien chi que sen : entrée dans un étrange onsen, Chihiro – littéralement mille brasses – s’est fait voler son nom par la vieille Yubaba (mémé du bain) et s’appelle désormais Sen (mille). Yubaba a une sœur jumelle, Zeniba, sorcière plus amène. Une quantité de personnages ambivalents – trois têtes, un gros bébé, etc. – peuplent cet univers très japonais, dualiste sans être manichéen. Un monde animiste où les poussières de suie ont une âme et les dragons se font rivières ou jeunes garçons.

Le film est aussi un commentaire sur le consumérisme : les parents de Chihiro se goinfrent d’une nourriture qui ne leur était pas destinée et sont métamor- phosés en cochons. Même le gentil Kaonashi se transforme en monstre quand il commence à dévorer le petit peuple de grenouilles de l’onsen. Bouffe et or, or et merde : c’est le message politique un peu simpliste, mais efficace, du film.

宮崎の最も美しいフィルムは魔術的な空気に包まれている。夜には幽霊が行き交う通り、水に浸かった不可思議なレールの上を渡る列車とそれに乗るまた別な幽霊。とりわけ感動を誘い詩情豊かである、少女千尋に寄り添うカオナシ

登場人物には二重性があり、みなチともセンとも読める漢字のようだ。奇妙な温泉宿に入った千尋は、湯婆婆という老婆に名前を奪われ、千と呼ばれることになる。湯婆婆には双子の姉妹がいて、銭婆という温和な魔女である。登場人物の多くがアンビヴァランで(三つ頭、太った赤ん坊など)、とても日本的な、マニ教とは違った二元論的宇宙に棲んでいる。世界はアニミズム的で、煤のほこりが魂を持っていて、竜が川であったり少年であったりする。

このフィルムは消費社会への批判をも含む。千尋の両親は他人の食べ物を貪り食ったことで豚に変ってしまう。優しいカオナシさえ、温泉にいた小さなカエル人などを食いはじめてから怪物に変貌してしまう。食べ物と金、金と糞。これはこのフィルムの、単純といえば単純だがしかし効果的な、政治的メッセージである。

 全体的に難しくはないが、何箇所かよく分らないところがあって、特に"Les personnages sont doubles, tout comme le kanji qui se lit aussi bien chi que sen"というところなんか文脈からなんとなく訳した。あと日本語の名前を説明しているところは略した。DeepLでカンニングしたところもあるよ。

 私は勿論ジブリ宮崎駿作品が大好きだけれど、あんまり海外での受容とか考えたことがなかった。日本人の私と共通するようなしないような。マニ教に言及しているところなんかおもしろい。

ルディクス(遊技)についてメモ(順次改訂)

 ルディクスに興味があるのだけれどあんまりよくわからない*1。わかったことをメモしておく。

 ジラール先生が最初に提案したのは1999年の論文らしいのだが、本格的に論じられているのは2001年の"Locus Solum"という長い論文である。こちらのほうが基本文献として参照される。ルディクスというのは恐らくジラール先生の造語だが、論文のタイトルの「ロクス・ソルム」というのも小説の『ロクス・ソルス』から取られた造語で、論文の中身もとにかく造語や新概念が多い。故になかなか読みづらい論文なのだが、巻末に付録としてジラール流論理学版「悪魔の辞典」みたいなのが載っていてこれがおもしろい。

 私は「ロクス・ソルム」が難しそうだと思って"From foundations to ludics"という別の論文を読んでいたのだが、読むうちにやっぱり「ロクス・ソルム」のほうが良さそうだな、となってなんか要領の悪いことになっている。こういうことを私はよくやらかしてその度にもっとじっくりと一つのものを読みなさいと思うものである。

 そんふうにいろんな文献をチラチラ見てわかったこと。

  1. ルディクスは構文論(これは証明論も含む)と意味論の対立を超えるものという触れ込みだが、どう超えているのかはいまいちわからない*2。構文論は証明を与え、意味論は反例を与える、という話は出てくるが、それに尽きるのかどうか。
  2. それよりも"syntax-as-syntax"とも書かれていてこちらのほうがピンとくる。構文論は意味論の要請によって与えられているようにも思えるが、自然演繹の正規化定理やカット除去定理のような構文論特有の現象もある。よって逆に
  3. カット除去(正規化)をベースに構文論を作り、意味論をその性質から導く、というような方針であるらしい。A\lnot A は矛盾すると考えるのではなく、\vdash A\vdash A^{\bot} でカットしたら空シーケントが出てくると考えるべきらしい。
  4. なので証明の本質はカット除去であり命題の正当化ではないと考える。よって正しくない命題を導いてしまうことも許す。それゆえ公理(のようなもの)としてなんでもありな「ダイモーン」が設定されている。
  5. ピッチフォークという特殊なシーケントを作り、そこからデザインという特殊な証明を作る。
  6. \vdash A\vdash \lnot A を根とするデザイン(とカウンターデザイン)でカット除去をする。普通の線形論理ではカット除去は必ず成功するが、ルディクスではダイモーンに頼らずにカット除去に成功するかどうかは分らない。プレイヤーは極性の正と負で、ダイモーンに頼らずカット除去に成功すれば勝ち、というゲームができる。 ※証明探索がゲームだと勘違いしていたので修正
  7. 命題という意味論ぽいものや論理式という構文論ぽいものは本当は出てこない。カット除去において重要なのはカット論理式とその部分論理式の位置(locus)なので、それを表す記号と番号が出てくるのみ。

 

その内TeXで書きまっせ。

*1:ちなみに遊技というのは私の提唱する訳語です。

*2:「わかったこと」と銘打っておいてのっけからわからないことを書いてしまってごめん。

ワンピースの映画の感想(諸星大二郎、ロバート・ノージック)、あと最近のミュージカル調アニメ映画への所感(犬王など)

ワン・ピース映画の感想 

ONE PIECE FILM RED」を観てきた。そこそこ面白かった。

 私はAdoちゃんが結構好きなので歌を堪能できて良かった。特に半ばあたりの矢鱈と早口なラップみたいな歌が良かった。中田ヤスタカもまあ悪くない。

 夢という設定については節を改めて後述。しかし夢の世界の様子は演出としてはけっこう無茶苦茶だった。谷口悟朗監督と言ったら名のある人だが、なんというか、あまり時間がなかったのだろうか。思いついた絵を並べただけのような感じで、まあ絶えず刺激はあったのだけれど、根底の部分で退屈であった。心の底から驚愕するような仕掛けは特になかった。ああ夢なのね、、、みたいな程度だった。ちょうど昨日テレヴィジョンで「千年女優」をやっていたので見たのだが、こちらは夢と現実の混濁とそれによる映像的な興奮みたいなのを完璧なまでに作画と演出と音楽で実現している。

 作画について物申したい。私は最近のバトル・アニメによくある「グググッッッドーーーン!」みたいな作画があまり好きではない。こういうのはキメヤイで顕著であったがワンピースでもありがち。あと「進撃の巨人」の立体起動装置のアクションで顕著なのだが、矢鱈とカメラや人物がグルグルするやつもあまり良いと思えない。どちらもしっかりとした人間の動きそのもので面白いものが作れないからやっているのだと私は感じる。「羅小黒戦記」を見習うべきである。

 ワンピースの昔からの難点なのだけれどバカな奴と無礼な奴が多過ぎる。ルフィはもうちょい落着け。あとウソップとチョッパーのリアクションは愉快なようでなんか作者の操り人形みたいに感じる。こういうのを楽しいと感じて好きな人もいるのかもしれないが、実はワンピースを支えるファンてそういうところを面白がっている訳でもないのだと思う。私もそうだけどやっぱ謎解きの面白さが一番であろう。

 あと新時代新時代と作品のキャッチ・フレーズを台詞で連呼するのはやめましょう。

 ウタは結局海賊を憎んでいたのだろうか。そうでもないのだろうか。最初はネットで真実を知ってしまった系かと思ったが実はシャンクスを恨んでいたようで、しかし実はそうでもなく、みたいな二転三転して有耶無耶だった感じ。私は話を理解する能力が低いのでそのせいかも。

 カタクリって物凄い人気なのでしょうな。メイン・キャラでもないのにあんなに見せ場を与えられて。声優も一流の人だし。

 しかしトット・ムジカって一体何だったのだろう。よく分らんのである。まあ考察勢に任せましょう。

 シャンクスや赤髪海賊団のことはなんだかんだであんまり明確にならなかったなあ。能力者はいないのだろうか。一人能力者っぽいのがいたけど特典の設定集を見てもよく分らなかった。

 あと五老星って天竜人だったと思うのだけどチャルロス聖とどういう関係なのだろう。五老星のポジションが未だに謎である。

諸星大二郎とロバート・ノージック

 ウタの能力でみんな眠って夢を見ていたわけだが、諸星大二郎先生の有名な短編に似たような話がある。「夢みる機械」というやつである。

理想的な夢だけ見て過ごせる装置へ人々が接続してコールド・スリープについていき、ロボットと入れ替わっていくという話である。主人公の少年は自分以外の人が実はみんなロボットであったことに気付いてしまう。当の本人たちは機械の中で眠っていたのだ。

 哲学者が思考実験として似たような話を提案してもいる。ロバート・ノージックの「経験機械」という話。私はこれを伊勢田哲治先生の『動物からの倫理学入門』で学んだ。

これも快楽だけの夢を見せてくれる機械に接続するという思考実験である。ここでの味噌は、接続している間「自分は機械に接続して夢を見ている」ということすら忘れさせてくれる、という点である。さて、貴方はこの機械に接続することを望むだろうか? ノージックはそんなことはないだろうと考えた。多くの人は機械で得られるまやかしの快楽漬け人生よりも現実の苦しいこともある人生を選ぶのではないか、と。機械に接続している間は機械に接続していることを忘れられるとしても、である。

 伊勢田先生はゲームにハマる人を引き合いに出し、実際のところ多くの人が選ぶかどうかは微妙だと書いていた。上述の本は2008年に出ているのでVR技術は今ではもっと進化している。私自身もちょっと考えてしまう。どうなんだろう。ゲームみたいに徐々に日常からハマっていけば抗えないかもしれないが、最初からそうなると分っていれば拒否するだろうか。しかし「夢みる機械」の方では多くの人が機械に接続することを選んだ、という訳だ。「夢みる機械」は、そうした選択を描くのではなく、既に多くの人が秘密裡に選択を終えていたという不気味さを提示するから面白い。哲学の思考法と漫画の作劇とそれぞれの醍醐味が両者にはある。

 さてワンピースの本作はどうか。ウタがウタウタの実で作るウタワールドは、そこが夢の世界であるということを忘れさせることができない。初めはみんな気付かないのだけれど後でバレる。というか日常に戻りたいという意思を消すことができていない。ウタはそれは楽しいことが足りないからだと解釈して暴走するのだが、経験機械のようにそこが夢であるということを忘れさせる方が良かっただろう。そこまで万能な能力ではなかったっぽい。ノージックの思考実験は機械に接続する前に全て忘れるかどうかを選択させるからこそ切実になった。ワンピースの本作はそういう話ではなかったのでまあそうなるわなという感じ。かと言って諸星ワールドのような味わいがある訳でもない。ちょっと狂気が薄いのである。

 まあそもそも私は歌を聴くことがそこまで楽しいとは思えないんだけどね。

 そういえば話としては「鬼滅の刃 無限列車編」もそんな感じだった。あれは「夢みる機械」や経験機械のようなところがあったが、人間というものをもっと短絡的に描いていた。快楽の奴隷のように描き、また「夢みる機械」が大胆に捨てたところを描いている。

最近のミュージカル調アニメ映画への所感

 ハリウッドのミュージカル映画がよくヒットしたりしていたが、日本のアニメ映画では歌姫みたいなのが出てくるのが多い。昨年からアニメ映画をできるだけリアル・タイムで観るようにしている私としてはもうお腹いっぱいである。

 昨年では「竜とそばかすの姫」と「アイの歌声を聴かせて」があった。感想もここに書いたはず。検索して探してみてね。「竜そば」の中村佳穂さんは現代日本で最高クラスに歌が上手いと思う。それと比べると「アイ〜」の土屋太鳳ちゃんは可哀想であった。

 最近では「犬王」もミュージカルであった。これの感想はまだ書いていなかったので書いておく。作画はまあ良いのだが、音楽が全然ダメだった。この作品は湯浅監督とか松本大洋先生とかアニメ好き垂涎の布陣だったのだけれど音楽の大友良英氏は平凡も平凡だった。劇伴をやりすぎて鈍ってしまっているのでは。アヴちゃんが優れたヴォーカリストであることは認めるが、やっていることがマイケル・ジャクソンのパロディであったりただの和楽器によるロック・ミュージックであったり実につまらない。そもそも私はロックというのは西洋音楽の伝統の域を出るものではないと思っている。企画上の布陣は豪華だが、音楽に関しては、高畑勲先生が久石譲を発掘したような、或いは大友克洋先生が芸能山城組を発掘したような、そういう執念というか嗅覚が足りなかったのではないか。

 それと比べるとワンピースのAdoちゃんは中村佳穂さん程ではないかもしれないが歌は上手いし曲もまあ良かった。少なくとも犬王よりは奔放で遊び心があって良かった。ミュージカル演出部分の映像は細田監督の方が良かったが。

 そういえば「フラ・フラガール」の感想も書いていなかったけどまあいいか。

物語の構造分析を漫画やアニメでやりたい【呪術廻戦、羅小黒戦記、鬼滅の刃、寄生獣、ウルトラマン、仮面ライダー、うしおととら、犬夜叉、ナルト、BLEACH、進撃の巨人、チェンソーマン、ハガレン、ワンピース…】

 数ヶ月前に『劇場版 呪術廻戦0』を観た。あんまりおもしろくはなかったけどめちゃくちゃつまらないというわけではなかった。取敢ず観て良かったかなと。

 観て気付いたのだが、私の大好きな『羅小黒戦記』の劇場版と話がよく似ている。私は構造分析というのをやってみたくなった。

 蓮實重彦大先生の『小説から遠く離れて』では、当時流行していたSF風の純文学作品をいくつか取り上げて、それらが実は同じ物語だということを論じている*1。蓮實先生は暗に物語なんて大体似てくるもんだから大したことないと言いたかったんじゃなかろうかと思う。同じ物語というのは、何点かのポイントを共有していて全体として同一の構造を持っているということである。構造分析というのはウラジーミル・プロップが神話や民話に対して行ったのが有名だが、現代小説でもなんだかんだできてしまうというのは衝撃だ。

 これの漫画・アニメ版の構築を試みるよ。

呪術廻戦と羅小黒戦記

 『羅小黒戦記』と『呪術廻戦0』は以下のような構造を共有している。

  1. 主人公は強大な力を秘めている。
  2. その力を利用しようとする敵がいる。
  3. 主人公は力の活かし方を教えてくれる師匠と出会う。
  4. 敵はマジョリティに虐げられた過去がある。
  5. 師匠と敵は対立する組織に属する
  6. 力を解放した主人公と敵が対決する。
  7. 最終的に力は封印される。

7つもあれば物語の構造として十分だろう。これらを二つの作品に沿って順に見ていこう。

1. 主人公は強大な力を秘めている

 乙骨優太は里香の呪いという特級の力を持っている。本編を含めても最強クラスらしい。

 一方シャオヘイは領界という最強の能力を持っている。

2. その力を利用しようとする敵がいる

 優太の力を奪おうとする夏油傑とシャオヘイの力を奪おうとするフーシーである。

3. 主人公は力の活かし方を教えてくれる師匠と出会う

 優太は五条悟と出会う。シャオヘイはムゲンと出会う。

4. 敵はマジョリティに虐げられた過去がある

 夏油にはなんかそういう過去があるっぽい。フーシーは明らかである。

5. 師匠と敵は対立する組織に属する

 なんかこれはそらそうだという感じもする。

 五条は呪術高専で夏油はなんか宗教団体みたいなやつ。ムゲンは館でフーシーはゲリラみたいなことをやっている。

6. 力を解放した主人公と敵が対決する

 どちらの作品もクライマックスでそうなる。

7. 最終的に力は封印される

 優太もシャオヘイも最強の力を失ってしまう。

もっと拡大したい

 いかがだろうか。おんなじ話である。

 もっといろいろな作品に適用できるといいのだが、これらはどちらも映画なので長編マンガなんかは上手く当てはまらない。より一般性の高い構造を考えてみた。それがこちら。

  1. 主人公は人外の力と正義の心を持つ。
  2. 主人公は人間と人外との境界に位置している。
  3. 主人公は命がけで達成すべき目的を持っている。
  4. 人外の者は強大な力を持つ代りに致命的な弱点もある(あんまり「構造」っぽくないかもしれないが)。
  5. 敵にも味方にも悲しい過去があって戦いが正当化される。
  6. 主人公の父に主人公の力の秘密が隠されている。
  7. 主人公と最後の敵は表と裏のような存在である。
  8. 主人公は大きな喪失を経験することで精神的な成長を遂げる。

前二作に当てはまるだろうか。命がけで達成すべき目的というのは明確ではないがまあ命がけで戦っている以上その理由はあるだろう。主人公の父はどちらも出てこないからダメである(後述のようにこれは日本のマンガアニメではありがちと思ったが、けっこう厳しい条件かも)。7はこの二作に関しては主人公よりも師匠の方が敵と対を成しているような。あとは大体当てはまっていると思う。

 では他の作品ではどうか。

鬼滅の刃

 1〜8を考えるにあたって強く意識したのがキメヤイである。

 ただし、人外っぽい力を具えて境界に位置するのは主人公の炭治郎よりも妹の禰豆子であるという点が微妙か。

 あとは勿論当てはまっている。

寄生獣

 実は近年のバトルものの基礎になっていると私が睨んでいるのが『寄生獣』である。

 ジャンプ作品の傾向と違うのは、3がないことかと思う。「夢」とか物語の最中目標がなく、主人公の新一はひたすら戦いに巻き込まれていく。

 4は人間を食べたり寄生しないと生きられないという点を想定している。

 5は微妙で6はないなあ。

ウルトラマン仮面ライダー

 人外の力を得て戦うという設定は寄生獣から盛んになったように思うが、古くは「ウルトラマン」や「仮面ライダー」シリーズもそうである。あんまり当てはまる項目はないが。

 ただし私の知る範囲では『仮面ライダークウガ』と『仮面ライダー555』はけっこう当てはまる感じがする。クウガは5がないのが特徴であろう。どちらも6はない。

うしおととら

 寄生獣とともに現代バトルマンガの基礎と思われるのが『うしおととら』である。

 4はなかった気がする。6があるのがポイント。

犬夜叉

 キメヤイに多大な影響を与えている作品だと私は睨んでいる。

 私はまだ途中までしか読んでいないのでよく分らないのだが、4と5は微妙か。8はどうなのだろう。

ナルト

 尾獣を考慮するとめちゃくちゃ当てはまる。4が微妙なくらいか。

 ナルトというのは長い割に物語の構造はシンプルなのである。

BLEACH

 最後まで読んでいないので最後の敵がわからない。ごめんなさい。

 物語全体としての3はないかもしれないが局所的にはある。

 4はなかったか。

進撃の巨人

 これも私は途中までしか読んでいないので最後の敵がどうなのか知らない。すみません。

 けれどもそれ以外は当てはまっている。

 進撃は人間と人外のバトルという構図が入れ替わっていくのが物語上の工夫だと思うのだが、もう少し抽象化するとそれは大した工夫ではないように思えてくるのである。

チェンソーマン

 4と7が微妙か。6はない。

鋼の錬金術師

 錬金術が人外の力と言えるかどうかが微妙である。

 ホムンクルスを人外の者と考えると、アニメ第一シリーズでは致命的な弱点があった。

 7が微妙か。

ワンピース

 悪魔の実の能力者を人外と捉えるとけっこう当てはまる。

 まだ完結していないので最後の敵が誰なのか分らないのが残念である。今後に期待。

 ところでワンピースは長い作品なので、内部にもっとワンパターンな特有の構造を持っている。

  1. ある島や国に来る。
  2. そこはかつて優しい統治者が治めていた。
  3. しかし今では悪しき海賊に支配されている。
  4. ルフィがそいつをぶっとばす。
  5. 優しい統治者もしくはその後継者が地位を回復し、再び平和が戻る。

これがびっくりするくらい当てはまる。アラバスタも空島も魚人島もドレスローザもワノ国も、もっと小さいエピソードにもこの構造があったりする。 

まとめ

 本記事は新しい情報が入るたびに随時更新していく予定。

 ちょっとしか見たことないのだが『スターウォーズ』も当てはまりそう。