曇りなき眼で見定めブログ

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おすすめの記事

 当ブログは論理学を中心とした哲学・数学・計算機科学の勉強記録と、アニメの批評・感想を中心に書いております。おすすめの記事は以下です。

 

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 アニメにもジェンダーフェミニズムを考えるうえで示唆に富んだ作品はたくさんありますよ、という記事です。いろいろな作品を紹介しています。本当の目的はアニメ一般に対する「前時代的」という批判への反論です。私の調べが進むにつれてアップデートされていきます。

 

 私の研究対象である線形論理というのの入門解説です。

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 藤井聡太先生の脳内には将棋盤がないという説を、様々なインタビューや棋士の証言をもとに検証しています。

 

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 マンガ『チェンソーマン』第43話に出てくるロシア語の歌を翻訳しています。元ネタはなんなのかもちょいと考察しています。

 

あとはカテゴリーから見てみてください。

「直観主義型理論(ITT, Intuitionistic Type Theory)」勉強会ノート其ノ壱「緒言」「命題と判断」(予習編)

 Per Martin-Löfの"Intuitionistic Type Theory"(1984)、通称ITT84*1の勉強会の記録でござる。今回はとりあえず、最初の2節で読んでもわからなかったところをメモっときます。

個人的な動機

 なにゆえITTに興味を持ったのかを書いといたほうがのちのち振り返ったときによいかもしれない。

 私は論理と計算の対応という現象に興味がある。なかでもITTは、めちゃくちゃ基礎的な理論でありながら、構成的プログラミングや定理証明支援系などわりとこうした話題のうち実用性が高い話とも繋がってくる。また近年注目(?)の証明論的意味論とも深い関わりがあり、哲学的にも興味深い。マーティン=レーフ先生は現象学に影響を受けているようで、思想面もおもしろそうなのである。

 ITTは直観主義論理をベースとしているが思想的には論理主義っぽいのではないかと思う。この数学の哲学の伝統的な論争もまた新たな観点から見られたりするでしょう。古の議論をずるずる引きずり続けるのは哲学のダメなところかもしれないが、私は哲学のそういうところが好きである。遊戯王OCGでシンクロ召喚が登場したときにレスキューキャットや召喚僧サモンプリーストの価値が高騰したように、哲学においても環境の変化と古典の復活みたいなことがしばしばあるのである。だから多面的な教養が必要で、哲学者はデュエリストなのである。

 あと遊戯王ついでにこれを

f:id:cut_elimination:20210414213220j:plain

ITTでは"judgement"という語が頻発されて、それを見るたびこのカードを思い出す。

緒言(Introductory remarks)

 ラッセル、可述性、プログラミングなど。

ロジックと数学の関係

 最初に。数学とロジックの関係は三通りの解釈があるという。

  1. 数学的記号法を使ったロジック、記号論
  2. 数学の基礎(あるいは哲学)としてのロジック
  3. 数学的手法を使った、数学の一分野としてのロジック

なるほど、これはなるほどです。ITT84で扱うのは主に2で、1も少し入ってくるが3は違うという。なので難しい定理の証明は出てこない。

 対して3というのはそういった哲学論争に踏み込まずにメタ定理を証明したりとかする研究のことであろう。2節で「ヒルベルトによって創始されたメタ数学の流儀でやるようにロジックを他の数学の分野と同じように扱うとき、…」と書かれている*2。後期のヒルベルトゲーデルやタルスキあたりから数学の基礎付けとして始まったロジックが数学の一分野になった感じがある。証明やモデルの構造の研究が始まったからである。具体的にはキューネン『数学基礎論講義*3』や新井敏康『数学基礎論*4*5で扱っているようなものだと思う。3ではないということは、そういう意味でのロジックではないということかと。

ラッセルの型理論

 続いて『プリンキピア・マテマティカ』(以下:『プリンキピア』)の批判(?)が書かれている。『プリンキピア』はラッセルとホワイトヘッドの共著だが、型理論を考案したのはラッセルのようなので以下ではホワイトヘッドのことはちょっと忘れる。

『プリンキピア』

 なので『プリンキピア・マテマティカ序論*6』の訳者*7解説を読んで勉強中。

 しかし、これを読めばラッセルの分岐型理論(ramified type theory)がどういうものなのかということと背景思想はわかるのだが、それがどれだけ使えてどんな限界があるのかは私にはあまりわからない。それが以下で露呈した。

可述性がわからん

 分岐型理論可述的(predicative)な体系である。可述的というのは非可述的(impredicative)ではないということである。「非可述的ではない」というのは「非可述的な定義を含まない」ということでいいのでしょうか?

 ITT84も可述的な体系であるとマーティン=レーフ先生はいう。実はマーティン=レーフ先生は、これ以前に作った体系が矛盾しているということがのちにわかったという経験がある。これを受けて改良したのがITT84の体系らしい。矛盾を示したのは我らがジャン=イヴ・ジラール先生で、この矛盾はジラールのパラドクスというとか。ITT84は小さい型(small types)という概念を導入してこの矛盾を回避しているという話が途中で出てくる。これが非可述的な定義を逃れているらしい。

 ということは以前の体系は非可述性ゆえに矛盾したのか? 分岐型理論で型の他に階(order)を導入しているのは非可述的定義によって生ずる悪循環を回避するためである。この悪循環はリシャールのパラドクスやベリーのパラドクスといった意味論的パラドクスを導く。しかしこれらが体系の矛盾といえるかどうかは微妙かと思う。それはさておき、ジラールのパラドクスはブラリ=フォルティのパラドクスと類似するらしい。ブラリ=フォルティのパラドクスはラッセルのパラドクスと類似した論理的パラドクスのはずで、これは深刻である。論理的パラドクスを回避するために導入されたのが型である。じゃあジラールのパラドクスはなぜ可述性で回避されるのだろう? というかITT84の可述性って結局どういうことなのだろう? 私の理解が表面的すぎるのがいけないのだと思う。精進します。確か「すべての型の型」みたいなのがパラドクスと矛盾を導いて、これは非可述的だからやめればいいとかそういうことだと思う。

 ラムジーウィトゲンシュタインの分岐型理論批判と真理値や真理関数の話、ラムジーの単純型理論(これは高階論理のことでいいという噂)のこともITT84でチラッと触れられている。これらの話題も『プリンキピア・マテマティカ序論』解説に出てくるので調べときます。

さらにITT84でわからんところ

It is free from the deficiency of Russell's ramified theory of types, as regards the possibility of developing elementary parts of mathematics, like the theory of real numbers, because of the presence of operation which allows us to form the cartesian product of any given family of sets, in particular, the set of all functions from one set to another*8.

 

これ(可述的な直観主義の型の理論)は、実数の理論のような数学の初等的な部分を展開しうるという点で、ラッセルの分岐的な型の理論の欠点を逃れている。何故なら、任意の与えられた集合族からデカルト積を作る操作が存在するからである。具体的には、あるひとつの集合から他の集合への関数すべての集合である。

やはり『プリンキピア』の知識が不足していて以下のことがわからない(3つ目は『プリンキピア』というより解析学の知識不足かも)。

  • 分岐型理論では実数論を十分に展開できないのか?
  • 分岐型理論では自由にデカルト積を作る操作がないのか?
  • デカルト積と実数の理論にはなんの関係があるのか?

ちょっと前のところで(還元公理を加える前の)分岐型理論について"... but it was not sufficient for deriving even elementary parts of analysis."と書いている*9解析学(analysis)は実数論をベースにしたものなのでこれと上の"elementary parts of mathematics, like the theory of real numbers"は同じことのように思える。ただし解析学との関連で分岐型理論の欠点としてよく挙げられるのは最小上界をうまく定義できないということである。"... but it was not sufficient for deriving even elementary parts of analysis."が最小上界のことを言っているのだとしたら、これはデカルト積とは関係ないはずなのでデカルト積が作れることでは解決しないと思うのだけれど。もしかして関係なくないのだろうか。

 なおデカルト積を作る操作というのはそのうち出てくる\Piの依存型であろう。

プログラミング言語との親和性

 現行のロジックの記号法はプログラミング言語に適していない、故にコンピュータ科学者は自前の言語を作った、と述べている*10。しかしITTはプログラミング言語として使えるとのこと*11。のちにITTはこの予言どおりCoqやAgdaといった定理証明支援系の言語の基礎となっている。

 しかしここで気になるのは、ITTの何がこれらの言語に貢献しているのか、である。(このあと出てくる)判断とかはどう使われいているのだろう。どうも今のところ調べた感じでは依存型(dependent type)が重要らしいのだが、他の構成要素はどうだろう。また、依存型は"ITTの"特徴といえるのかどうか。ITT以前にも依存型はあったのではないかと。

命題と判断(Proposition and judgements)

 命題と判断の違い、判断の導入、BHK解釈

命題と判断の違い

 命題(英: proposition, 独: Satz主張(英: assertion)もしくは判断(英: judgement, 独: Urteil)との違いを強調している。言語哲学的には主張と判断の違いも微妙なはずで、これについてはマーティン=レーフ先生は別の論文で論じているはずだが、ITT84では特に何もない。これ以降では判断のほうを使っているのでそれでまあよい。

 「Aは真である」と言ったとき、Aが命題で「」内が判断である。ITTはこれらの違いを体系内で明示的に扱う。この内容と判断の区別は後述するフレーゲの影響っぽいが、実はもっと遡ってボルツァーノに由来する、確か。

 さて、命題と判断の区別は何がそんなに重要なのだろう。いろいろ調べているとマーティン=レーフ先生の論文を読む人は彼の判断へのこだわりがよくわからなくてモヤッとらしい。私も例外ではない。これはどうも哲学的な動機があるようで、マーティン=レーフ先生は出自はゴリゴリに数学の人だが哲学史の論文も書いている。けどもしかしたら判断へのこだわりの補強するために哲学史を勉強したのかもしれない。このへんも徐々に調べるのである。

判断とは?

 判断の形式は4つある*12。マーティン=レーフ先生の記法は現代のスタンダードとは違うようなので、現代的なものも併せて書く。

  1. A は集合である(省略して A \; set) これは現代では  A:Type じゃないかと。
  2. AB は等しい集合である(A = B) これは同じか。
  3. a は集合 A の要素である(a \in A) これは a:A
  4. ab は集合 A の等しい要素である(a = b \in A) これは a = b:A

 マーティン=レーフ先生は \in を文字どおりギリシア語の εστι として読むならば、ということを書いているが(\in 記号はギリシア語の繋辞 εστι の頭文字に由来するので)、まあ関係ないかと思う*13。どうもマーティン=レーフ先生は語学が得意なようで、こういう話題が好きなのかもしれない。

 重要な注意は、普通は a \in ba = b は命題だがここではこれらは判断だということである。

BHK解釈

 ブラウワーとハイティングとコルモゴロフでちょっとずつ違うらしい。論理結合子の解釈は同じようなものだろうけど、命題と証明の関係というベースの部分でいろいろあるようだ。ITT84, 4ページの表によると、ハイティングの解釈は命題が予想? 期待?(expectation)で証明がその実現である。

 コルモゴロフの「直観主義論理の解釈について」という論文はこのたび読んだ。元はドイツ語だが英訳("On the Interpretation of Intuitionistic Logic")がある。ここで直観主義論理は問題解決のための論理だということが述べられている。私は以前コルモゴロフが書いたグリヴェンコへの追悼文(これはロシア語)を読んだことがあるのだが、ここでも直観主義論理を問題解決の論理として紹介していた。コルモゴロフの論理・数学思想もまた別でまとめまっせ。

 マーティン=レーフ先生は若い頃モスクワに留学してコルモゴロフの指導を受けたらしい。この頃すでにコルモゴロフはロジックから離れていて、マーティン=レーフ先生はまだロジックを専門としていなかった。ランダムネスの研究をしていたらしい。コルモゴロフ複雑性とかマーティン=レーフランダムネスとかだと思う。ITT84, 4ページによれば、直観主義論理のコルモゴロフ解釈は証明をプログラムとみなす現代の考え方と親和的とのこと。

岡本賢吾先生の論文を読もう

 岡本先生の論文は過去にも二つ扱っている。

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この記事のなかでも述べたが、岡本先生は現代の計算機科学方面のロジックの知見を活かして古典を再解釈するという研究をされている。ITTを扱った論文も書いていてる。「「命題」•「構成」•「判断」の論理哲学--フレーゲウィトゲンシュタインの「概念記法」をどう見るか」という論文で『分析哲学の誕生-フレーゲラッセ*14』という本に入っている。この論文の前半ではITTの知見を活かしてフレーゲの「概念記法」の判断論を再解釈している。

 というわけなのでマーティン=レーフ先生がフレーゲの判断論からどのような影響を受けたのかはこの論文ではわからないのだが(話が逆なので)、しかしおもしろい論文なのでここでメモっておく。

 概念記法には二つの重要な記号が出てくる。内容線判断線である。これらは以下のようなもの:

 内容線:\vcenter{\rule{1.0cm}{0.4pt}}\;\Phi

 内容線+判断論:|\vcenter{\rule{1.0cm}{0.4pt}}\;\Phi

岡本先生によれば内容線というのはそれ(上ならば\Phi)が適正な文であることを表し、判断線が加わるとそれがその体系の公理または導出されていることを表すという。内容線+判断線は現代でも証明可能であることを表すターンスタイル記号\vdashとして残っているが、それと同じようなことである。しかし決定的に違うのが、『概念記法』では内容線+判断線は「公理または定理であることが現に証明されているような文に付されるだけである」が、ターンスタイルは「原理的に…導出可能であるようなすべての文に付される」*15

 しかしこれは岡本先生の解釈であってフレーゲがそう書いているわけではないらしい。というわけで『概念記法*16』(藤村龍雄訳)を見てみた。いわく「内容を表す記号の前に|\vcenter{\rule{0.5cm}{0.4pt}}を書けば、それで、あらゆる内容が判断になる訳ではない。例えば、「家」という表象は判断にはなり得ない。それゆえ、われわれは判断可能な内容と判断不可能な内容を区別する。…内容線の後に続くものは、常に、判断可能な内容をもたなければならない*17」。これを見ると内容線に関しては確かに岡本論文の解釈は当っているように思える。ただし判断についてはもうちょっとフレーゲの哲学を調べてから判断したい。岡本論文はフレーゲの判断論において証明という概念が重要であると述べているが、その正否は私にはまだ判断できない。今後の課題である。

 さてITTである。岡本論文によるとITTの判断のうち二つは概念記法の内容線と判断線と対応しているという。

 ITTの内容線:\Phi : proposition

 ITTの判断線:\Phi : true

そしてこれらはITTの規則を使ってちゃんと証明できることなので、その点で概念記法よりいい感じである。\Phi : proposition は上述の四つの判断を使うと \Phi \; set に当たる。\Phi : true は例えば  p \in \Phi みたいにする。命題を集合(あるいは型)と同一視し、証明をその要素と同一視するカリー=ハワード対応である。命題が証明を持っていることが、その命題が真であるという判断になる。つまりフレーゲのいう判断はITTでは常に証明を伴って現れるので、フレーゲにおいて証明が重要だとする岡本先生の解釈が正しいのだとすれば、概念記法とITTはすごく相性がいいことになる。

そういえば証明ってなんなのだろうか

 命題と判断だけでなく、証明と判断の違いにも注意が必要であろう。

 自然演繹や推件計算でよく書くあの樹状の図は判断の証明で、命題の証明は要素であるから別である。自分なりの言葉で書くと、命題の証明はモノで、判断の証明は認識のプロセスである。しかしこういうことを書くと形而上学にコミットしてしまうので危険かもしれぬ。マーティン=レーフ先生は判断の証明と命題の証明の混同を避けるためにしばしば後者を構成(construction)と呼ぶとしている*18。そういえば「証明図」や「証明可能」の定義はよく見るが、「証明」の定義って一般的にあるのだろうか? あと推件計算ってあれは「証明」をやっているのだろうか? なんか変なことが気になってきて怖い。

 さて、例えば「自然数は無限にある」という命題の証明はどういうモノか。うまく記号化するとこの命題はこんな感じになるかと思う。

 \forall n \in {\mathbb N} \exists m \in {\mathbb N}(n < m)

 この命題の証明を、自然数(例えば n)が与えられたときにそれよりも大きい自然数(例えば n+1)を返す関数、およびその自然数が確かにもとの自然数よりも大きいという別の証明のペア、というように解釈するのがITTであろうかと。ただしこれだと不等式の定義がまた必要になってややこしい例かもしれない。まあでも「命題の証明はモノ」というのは、こうやって関数やデータとして構成できるということによる。

 モノと認識プロセスの違いなどと書いたが、マーティン=レーフ先生はボルツァーノ・ブレンターノ・フッサールといった初期の現象学者を参照して判断に関する哲学的な議論も行っている*19。これはダメットの『分析哲学の起源*20』の影響ではないかな〜という気もする。ダメットも直観主義論者の大御所で、同書では現象学分析哲学は同根であると主張している。

*1:いま私が思いついた略称です。

*2:ITT84, 2ページ。

*3:

キューネン数学基礎論講義

キューネン数学基礎論講義

 

*4:

数学基礎論 増補版

数学基礎論 増補版

  • 作者:新井 敏康
  • 発売日: 2021/04/12
  • メディア: 単行本
 

*5:増補版が出たことをいま知りました。

*6:

*7:この後また出てくる岡本賢吾先生と戸田山和久先生と加地大介先生です。

*8:ITT84, 1ページ。

*9:ITT84, 1ページ。

*10:ITT84, 1-2ページ

*11:ITT84, 2ページ。

*12:ITT84, 3ページ。

*13:ITT84, 3ページ。

*14:

*15:岡本論文, 152-153ページ。

*16:

フレーゲ著作集〈1〉概念記法

フレーゲ著作集〈1〉概念記法

 

*17:11ページ。太字は原文のまま。

*18:ITT84, 4ページ。

*19:"On the Meanings of the Logical Constants and the justifications of the Logical Laws"という論文です。まだ読んでません!

*20:

分析哲学の起源―言語への転回

分析哲学の起源―言語への転回

 

おもしろアニメーション映画『JUNK HEAD』の簡単な感想

 これは『プペル』の上位互換である。

 私は情弱なのでこのたび初めてこの作品を知った。たいへんおもしろかった。アニメ映画『えんとつ町のプペル』に対する私の感想はこちらの記事を参照していただきたい→【感想】「えんとつ町のプペル」と「鬼滅の刃 無限列車編」と「羅小黒戦記(中国語音声・日本語字幕)」を観てきたぞ! - 曇りなき眼で見定めブログ

 『プペル』に対する私の感想を要約すると、ものすごい駄作だがなんだか嫌いになれない、というものである。映画としてはボロボロだけれど、世界観とかデザインとかアニメとしてのベースの方向性はむしろ好きなのである。本作『JUNK HEAD』は、そういう好きな雰囲気が凝縮されていてなおかつ全体としてもおもしろく仕上がっていた。しかもほとんどひとりで作っているとのことで、その情熱たるや凄まじい。インディーズ映画っぽい荒々しさに満ちた作品かと思いきや「しっかりと」おもしろかったのでそれが驚きである。

 世界観は弐瓶勉先生の『BLAME!*1』や、あと『タテの国』というマンガもあったがあんな感じで、わけがわからないくらい高層建築が建てられてしまって自分がどこにいるのかよくわからないのである。私はそういうのが大好きである。悪夢みたいだ。

 クリーチャーのデザインも素晴しいし、イチモツのでかいクリーチャーの遺伝子を取りにいくという動機のしょうもなさもよい。あの三バカが後半で活躍するというのもドラマチックである。しかも彼らの異名も伏線になってたし。センスと情熱だけでなく観るものを楽しませるエンタメ精神にも富んでいて楽しい。

 あとあの赤いフードの子がめちゃくちゃかわいい。

 あとキャラクターの発話がときどき日本語っぽく聴えるのとかもいちいちおもしろい。

 クノコがキモい。

 ごく個人的に好きだったのが、火力を調整しつづけているジジイである。ちょっと『星の王子さま』の点灯夫を思わせる。というか全体的に『星の王子さま』チックなところがある。あの組織で働いているヤツらも。彼らはジジイの存在を知っているのだろうか? 故障の原因がジジイの匙加減だということを? という世界観のヘンテコさというか支離滅裂さがたいへん良い。

 生命の木とか赤いフードの子とか伏線を残したまままだまだ続きそうな感じで終ったが、続編を制作中とのこと。いったいいつ完結するのかわからないが、気長に待ってます。

 

 それにしても『モルカー』といいこれといいストップモーションアニメもいいなあ。

【今更ながら】『ジョゼと虎と魚たち』(アニメ映画)と『すばらしき世界』の感想

 ものすごい街中に引越したのでシネコンが徒歩数分のところにある。ミニシアターもまあまあ近くにある。というわけなのでなるべく週一回くらいのペースで映画を観たろうかなと思っている。

 当地で記念すべき最初に観た映画は『すばらしき世界』(以下:『すばせか』)という作品であった。これの感想を書きまっせ。そしてちょっと前に観てまだ感想を書いていなかった『ジョゼと虎と魚たち』(以下:『ジョゼ』)についても。『すばせか』はけっこう『ジョゼ』と被る部分があって、観ながら思い出していた。

ジョゼと虎と魚たち

観る前のモチベーション

 私は実写映画に疎くて、実写映画版が有名だというのは知っていたけれど見ていない。原作はあとで読んだ。しかしなんとなくのイメージはあって、けっこうエロス+退廃的な作品だと思っていた。ところが公式サイトを見ると「感動」みたいな感じではないか。しかもクリスマス公開。なんか妙な感じを覚えつつ観にいった。

 ただ、制作はボンズ(以下:ズンボ)とのことで、作画には期待していた。『鬼滅の刃 無限列車編』の感想*1でも挙げたのだが、ズンボ制作の劇場アニメで『ストレンヂア 無皇刃譚』という素晴しい作画の作品がある。これ以外にもテレビアニメでもズンボは作画に拘っている印象である。

 あとジョゼ役の清原果耶さんは朝ドラ『なつぞら』で好演していてけっこう演技実力者という印象である。

 というよりももっと個人的に大きかったのは「プペル&キメヤイショック」の直後に観たという点である。キメヤイというのは『鬼滅の刃 無限列車編』のことである。これらが物凄くつまらなかったというのがあって*2、まあそれよりは良いだろうという気持ちが強かった。

観た感想

 さすがに『プペル』や『キメヤイ』よりは良かった。福祉って大事だな〜と思った。

 しかし作画的な見せ場は特にないように思った。その点はすごく残念である。

 キャラクターデザイン(原案はまた別)の飯塚晴子さんだが、私は同じくこの人が担当した『たまゆら』というのを見ていたのだけれど、アニメ界一の「アニメっぽいかわいいキャラ」を描く人だと思う。それに対してキャストは専業声優とそうでない人が半々くらいで、特に主役は実写の俳優である。実写の役者の映画っぽい演技とアニメっぽい見た目とがあまり合っていない感じがあるの。要するにジブリ作品のような「『アニメ』ではなく『映画』を志向しています」みたいなものを目指しているのかそうでないのか微妙なのである。そうでなければ「ジョゼと虎と魚たち」を原作にアニメ映画を作ろうとなはならないはずだし、そうなのであれば飯塚さんらの絵は合っていない。けれどこれについては私がもっとそれくらいの作品を見て慣れるべきだとも思う。これは新しい第三の方向性なのだろう。

 作品全体の方向性+キャラクターデザインの問題として気になったのだが、ちょっとジョゼがかわいすぎると思う。実際に「ジョゼ」という名前だったとしてもあんまり違和感がない容姿をしているのは作品のテーマを考えるとどうなのか。またこれだけかわいかったら好きになるのも当然で、二人の間のいろいろな障壁とかがちょっと霞む。よくあるツンデレキャラに見えてしまう。

 ジョゼの家の収入源がよくわからなかった。どこからツネオへのバイト代が出るのか。これが原作だと生活保護を受けていて、そもそもツネオはバイトではなかった。このあたりはアニメ映画のほうは詰めが甘いと思った。これについては『すばせか』と関連してまた。ジョゼのおばあさんが臆病な人なのか豪快な人なのかもよくわからなかったのだが、原作は短いのでジョゼのおばあさんの描写はほとんどなく疑問はない。

その後

 田辺聖子による原作小説*3はごく短いとのことだったので読んでみた。やはり原作とアニメ映画ではまったく違っている。話を現代にしてアニメにして長編にするのだからまったく別になるのは当然だが、だとしたら何故これを原作にアニメ映画を作ろうと思ったのだろう? それはさておき、話とか世界観だけでなく、根本のテーマがまったく違うというかむしろ逆のように思うのだがどうなんだろう。ただの観客である私は別にいいのだが、これで「ジョゼと虎と魚たち」というタイトルにしてしまっていいのだろうかと思うほどなのだが。田辺聖子はもう亡くなっているが、田辺サイドはどういう想いなのだろう。

 アニメ映画版はとにかくキラキラしすぎているのである。夢とか希望とかそういうのではないところに幸せを見出そうとするのが原作の良さだと思う。

 原作では"虎"を見るシーンが非常に叙情的で良いのだが、アニメにしてしまうとけっこう陳腐である。アニメは普段から鬼だとか使徒だとか恐ろしげなものをビジュアル化するものなので、アニメで虎をそのまま描いてしまってもまったく怖くない。

 それよりも"魚"の扱いである。原作ではこの魚というモチーフがとても深遠で良いのだが、アニメ映画では魚がキラキラの象徴として出てくる。この改変はマズくないだろうか。

 ただ、前節でジョゼがかわいすぎると書いたが、原作では「日本人形のような」というように描写されていた。おそらく美人という感じではないかもしれないが汚れのない美しさであろうと思う。またわがままなというか傍若無人な性格がかわいいという感じでも描かれている。アニメ映画版のデザインは洋風すぎるしテンプレツンデレキャラに寄りすぎているようにも思うが、この原作をアニメにするにあたってツンデレとして解釈したのは悪くはないような気もする。

『すばらしき世界』

なぜ観たのか

 まったくもって実写映画を観なくなって久しいのだがそれはアカンと思い、知り合いにオススメを聞いてこれを観ることにした。現代社会の暗部を描く作品みたいだし耐えられるかな〜と思いつつ観にいった。

観た感想

 結果、けっこう良かった。やはり実写映画も観ないとなあ。福祉って大事だな〜と思った。

 なんか、アニメと違って建設的な感想が出てこない。なのでいろんな切り口を試して書きます。

白竜もまた日本映画の闇の受け皿である

 役所広司は日本を代表する映画俳優で、国際映画祭で賞を取るような映画によく出演している。ちょっと日本映画は役所広司に依存しすぎじゃないかと思う。

 もうひとつ日本映画が依存しているのがヤクザである。そしてヤクザといえば白竜である*4。途中で主人公がヤクザに戻りそうになって、旧知のヤクザを白竜が演じている。社会のハミ出し者にとっての闇の受け皿がヤクザだとして、映画にとっても白竜を出してバイオレンスにすることはそういうものなのだと思う。しかしこの映画はそっちに流されることなくヤクザの悲惨さも描かれていて良かった。

 役所広司は役所で働いていたからこの芸名になったらしい。白竜に依存せず役所に依存するのは、まあ正解かも。

人よ、何故このような映画を観るのだ

 しかし、観ていてすごく嫌な気持ちになる映画である。まあ当然である。苦しい展開が続く。現実の日本社会もまあこんなものなのかもしれない。凄くリアルで身につまされる。

 良い映画だとは思ったが、お金を払ってまで観たくはなかった。じゃあいったい「良い映画」ってなんなのだろう。しかしこれは映画とか藝術というものが内包する哲学的難問だと思う。例えばホラー映画なんてのは、恐怖というネガティブな体験をするためのお金を払うのである。というようなことが戸田山和久『恐怖の哲学*5』という本で論じられているようだけどまだ読んでいない。

 というよりも、なんだかインテリとかカルチャーに敏感な人たちの間で「厳しい現実をどれくらい直視できるか選手権」みたいになっている感じが気になっている。わざわざ観ていて嫌な気持ちになる映画を観るの理由はそれなのではないか、と。

比較とまとめ

 『ジョゼ』に関して「詰めが甘い」と書いたが、『すばせか』は甘くない。けど甘くなさすぎてキツい。ちょうどいいところが欲しい。『パラサイト』なんかは理想的だったなあ。『すばせか』はコメディっぽいところもあるのだが、やや取ってつけた感があって残念であった。

*1:【感想】「えんとつ町のプペル」と「鬼滅の刃 無限列車編」と「羅小黒戦記(中国語音声・日本語字幕)」を観てきたぞ! - 曇りなき眼で見定めブログ

*2:上の注のリンクを見てもらえるとわかるのですが、「物凄くつまらない」という感想は主に『キメヤイ』に対するもので、『プペル』に対する私の想いはもうちょっと微妙なものです。

*3:

ジョゼと虎と魚たち (角川文庫)

ジョゼと虎と魚たち (角川文庫)

 

*4:町山智浩さんが言っていたけど、「白竜=ヤクザ」という図式は『その男、凶暴につき』以降のものらしいです。

*5:

「モーニング娘。の第3期メンバー」は確定記述句か? 問題の続報

【分析】「モーニング娘。の第3期メンバー」は確定記述句か?【哲学】 - 曇りなき眼で見定めブログ

 ↑この記事で「『モーニング娘。の第3期メンバー』は後藤真希という一人の人物を表現するが、これは確定記述句っぽくない」というようなことを書いた。ここでの問題は、そもそも確定記述句の定義は定冠詞のついた単数の名詞句というものなのだが日本語には冠詞も数もない。なので「モーニング娘。の第3期メンバー」といっても指示表現に見えないのである。

 先の記事を書いたときには『言語哲学大全Ⅱ」を参照していた。実は当時の私は『言語哲学大全Ⅰ』を紛失していたのである。確定記述句の解説は『Ⅰ』が扱う範囲で、『Ⅱ』では復習程度にしか出てこない。しかし引越しに際して『Ⅰ』が出てきた。そして折よく『Ⅰ』の読書会に参加する機会があった。そして気づいた。

 『言語哲学大全Ⅰ』の174ページに確定記述句を含んだ文の例として

 ・チャールズ二世の父親#は処刑された。The father of Charles Ⅱ was executed.

というのが出てくる。この「#」というのはすぐのちに出てくるもう一つの例文と対比するとわかる。

 ・チャールズ二世の父親は処刑された。A father of Charles Ⅱ was executed.

英語のほうの例文では冠詞が"the"から"a"に替っている。つまりこれは英語の冠詞の違いを日本語の例文でも再現するために加えられた「#」なのである。

 やはり日本語では確定記述句の議論はちょっとピンとこない。この記法に従うと「モーニング娘。の第3期メンバー#」と書くことで確定記述句になるが単に「モーニング娘。の第3期メンバー」だとそうではない。私の感覚では、"the"というのは唯一性を表すだけでなく、それがなんらかの指示表現であるということも示唆しているように思える。日本語にはそれがないので「モーニング娘。の第3期メンバー」はある人物を表しているのかどうかわからないのかなと。つまり日本語には確定記述句ともそうでないとも受け取れる句が普通なのでは。それを回避するために#みたいな記号が必要となる。

 

言語哲学大全1 論理と言語

言語哲学大全1 論理と言語

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  • 発売日: 1987/10/20
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言語哲学大全2 意味と様相(上)

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  • 作者:飯田 隆
  • 発売日: 1989/10/30
  • メディア: 単行本
 

藤井聡太さんのあの謎の発言について考える(「脳内将棋盤の現象学」のための情報整理)

「〇〇の現象学」がシリーズ化しつつあります…

 

 プロ棋士は全員が、アマチュアでもある程度強い人は、脳内に将棋盤があるという。ぴよ将棋初段というしょうもない棋力の私はそんなものはないのでわからないのだが、どうもぼんやりと像が浮ぶのではなくリアルな実体として見えて、実物のように駒を動かせるらしい。以下の動画によればトレーニングによって身につくものだとか。


100%棋力アップ!脳内に将棋盤をインストールする方法。今日から貴方も藤井聡太

これについて現代現象学(という哲学の分野があるのです)の観点から考えてみたいと思っていて、そのために今回はまず棋士の方々の様々な証言をまとめておく。

 また、将棋ファンの間でたびたび話題になる「藤井聡太の脳内には将棋盤がないのでは?」という説についても検証しまっせ。というかタイトルにもなっているとおり、この検証が本記事と脳内将棋盤の現象学構想のメインテーマです。

脳内将棋盤:棋士たちの事例と証言

 プロ棋士は脳内将棋盤をどのように使いこなしているのか。それがわかる事例と棋士自身による証言をいくつか取り上げる。

目隠し将棋

 まず、プロ棋士レベルになれば当たり前のように目隠し将棋ができる。将棋においては先を読むのが重要である。数手先の局面は現在とはまったく異なる盤面となる。いま眼前にはない将棋盤が見えれば先が読みやすくなる。目隠し将棋の能力はそれを保証する。

 プロ棋士同士がテレビ番組の企画やイベントで目隠し将棋を披露することがよくあって、私も何度か見たことがある。私の印象では、目隠しでやると二歩をしやすいように思う。ただし印象でしかなくて統計データなどはない。もしそうだとすると、脳内将棋盤がいくらリアルだといって、流石に実際の盤よりは不確かなものということになろう。

クルマの運転ができない

 棋士にはクルマの運転ができないという人が多い。羽生善治九段がそういう話をしていて、よく棋士の凄さとしてメディアで取り上げられるようだ。しかしその理由は私には判然としない。

 運転中に将棋のことを考えだすと没頭してしまって危ないから、というのがもっともありそうである。しかし脳内将棋盤を考慮すると、目の前に将棋盤が浮んでくると前が見えなくなるからとも考えられる。羽生先生ご自身の直接の証言が見当らなかったのでなんともいえない。茂木健一郎さん*1との対談でその話が出ていたが、茂木さんのほうからその話を出して「運転しているとき将棋のことを考えると頭の中に将棋盤ができて駒が動きはじめる。それで危ないから運転はしないんだって」と言っている*2。これだと「頭の中の将棋盤」がどういったリアリティを持っているのか、何とも言えない。そして羽生先生の見解はわからない。

人によって色や形が違う

 脳内将棋盤のリアリティを語るうえで重要なのが、色や形を持っているという点である。棋士によって違う盤が見えているらしい。しかも一人のなかでもコレとひとつに定まっているわけでもないようだ。これは知覚や想像といった経験の分析と併せて考えると興味深いものがある*3

暗くなる

 中原誠十六世名人は、自身の棋力の衰えを感じたとき「頭の中の将棋盤が暗くなった」という。これは一見すると譬喩として言っているようだが、先ほどの話を考慮すると、実際に暗く見えているとも考えられる。

藤井聡太先生の謎

 近ごろ将棋界や将棋ファンの間でたびたび話題になるのだが、藤井聡太二冠(あくまで二冠)は脳内に将棋盤がないという。これは『りゅうおうのおしごと!』の作者・白鳥士郎先生によるインタビュー*4(2018年10月)が発端である。このインタビューから始めて、その後の藤井先生のインタビューや棋士の反応を見ていく。

りゅうおうのおしごと! (GA文庫)

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白鳥先生のインタビュー

――棋士はどなたも『脳内将棋盤』を持っておられます。でも藤井先生は、あまり盤面を思い浮かべておられる感じではないと、以前、記事*5で拝見したのですが。

「はい」

――では、対局中はどんな感じで考えらおられるのですか? 棋譜で思考している?

「ん……それは、自分でもよくわからないというか。んー…………」

――盤は思い浮かべない?

「まあ、盤は(対局中は)目の前にあるわけですので」

――詰将棋を解くときなどはどうです?

詰将棋は読みだけなので、盤面を思い浮かべるという感じでは……」

――えっ? ……私のような素人だと、詰将棋を解くときこそ将棋盤を思い浮かべるというか……むしろ手元に盤駒を置いていないと解けないくらいなんですけど……。


 藤井はニコニコしている。
 ちょっと、得体の知れなさというか……『よく笑ってくれるし、普通の高校生だな』と感じ始めていた藤井に対して、このインタビューで初めて……恐怖に近いものを感じた。

このインタビューのあとで白鳥先生はこの件ついて行方尚史八段(当時)に意見を求めており、そこでのやりとりがこのインタビュー記事に挿入されている。

――藤井先生は『詰将棋は読みだけなので、盤は必要ない』っておっしゃってるんですけど、その点はいかがですか?

行方「ああ。頭の盤で考えるってことですか」

――いえ。頭にも盤がないみたいで。

行方「え? 盤面を思い浮かべないってことなんですか?」

――あんまりいらないみたいです。盤は目の前にあるからって。詰将棋は読みだけなので、もっといらないみたいです。『読みだけ』ってどういう意味なんですか?

行方「でも、さすがに頭の中に盤は必要ですよね?」

――ですよね!? 普通は盤が必要だと思うんですよ。だから話が噛み合わなくて……行方先生は頭に盤を思い浮かべてますか?

行方「(詰将棋の問題の)盤面を焼き付けて、頭の中で動かして考えるって感じですけど……」

行方「私は今でも詰将棋をやってますし、今後、長く戦っていくために詰将棋のトレーニングは絶対必要だと思っていますが…………多分、藤井くんには何かがあるんだと思います」

 この記事のポイントは以下である。

  • 藤井先生はあまり盤面を思い浮かべない。
  • 棋譜で思考しているのかというとそうでもない。
  • 詰将棋ではとくにそうである。
  • しかし藤井先生自身にもうまく言えない。
  • 詰将棋に関する話は行方先生にとってかなり意外である。
  • 「読みだけ」という言葉の意味がよくわからない。

 このインタビューは大反響を呼んだ。Twitterの反応は以下のようになった。

togetter.com

棋士の反応

 このインタビューは棋士の間でも大きな反響があったようだ。

糸谷&香川

 糸谷哲郎八段もこのインタビューを読んで衝撃を受けたようである。香川愛生女流四段のYouTubeに出演した際に語っている(2020年9月)。

 糸谷先生も香川先生も、頭の中に将棋盤がないというのは考えられないという。糸谷先生は、それが藤井先生の強さの秘訣だと考えている。盤を思い浮かべて動かしているようでは遅いのではないか、と。藤井先生の読みの速さと深さは、それを省略しているからこそだと考えられるのである。

 糸谷先生がインタビューを読んだ感じでは、コンピュータソフトが読むように符号だけが動いているのではという印象を受けたという。コンピュータがいかに物を考えているかというのは現象学的にというか哲学的に非常に難しいテーマなので、この指摘は興味深い。そもそも物を考えるとはどういうことか、コンピュータはそれを行なっているのか、という話になってくるとかなりややこしい。しかし、コンピュータプログラムが将棋を指すのに画像は必要ない。必要なのは駒の配置のデータであって、形や色や(相対的な駒の)大きさのデータは関係ない。

遠山六段

 しかし、実は先ほどのインタビューは、白鳥先生の筆致と藤井聡太先生の驚異的な強さのおかげで、やや過剰にすごいものとして広まってしまっている部分もあるようだ。遠山雄亮六段が以下のように反応している*6(2018年10月)。

このテーマはファンの間で大きな話題となった。通常プロ棋士は頭の中に将棋盤があり、そこで駒を動かして考えるとされている。駒を動かさずにどうやって考えているのか、想像がつかない部分があるのだろう。
しかし私も藤井七段と同じ思考法をするので共感する部分であり、特に不思議には思わなかった。なぜなら脳内の将棋盤で駒を動かすのは、思考よりもずっと遅いのでまどろっこしいのだ。思考のあとに確認をするために脳内の将棋盤で駒を動かす感じだ。

例えば皆さんが料理を作るとしよう。その工程を1つずつ思い描いて作るだろうか。もっと直感的に、勝手に手が動いていく感じだろう。私たちが将棋を考えるのもそんなに変わらない。脳内の将棋盤と駒を動かさずに思考することは、普通では考えられない凄技だと思われそうだが、料理が苦手な筆者からすれば皆さんの料理を凄技だと思う。

実際のところ、多くのプロ棋士も藤井七段とそんなに変わらない思考法をとっているのではなかろうか。インタビュー中にはその思考法に驚くプロ棋士のコメントもあるが、それは非常に難易度の高い局面や詰将棋でのことを指しており、基本的に普段は藤井七段の思考法と変わらないと考える。
藤井七段が本当にすごいのは、その思考のスピードと正確性だろう。その質の高さが、そのまま将棋のクオリティの高さにつながり、その勝率の高さにつながっている。 

 実は多くのプロ棋士も脳内将棋盤上の駒を一手ずつ動かしているわけではないのではないか、という指摘である。料理との比較は意識の主題化という問題と関わっていて哲学的にも興味深い。さて「脳内将棋盤はあるが、一手ずつ動かしているわけではない」と解釈しても先ほどの藤井先生のインタビューの発言は整合性が取れるのではないかと私には思える。

謎の解明へ

 ここからは藤井発言の核心に迫っていく。

その他の藤井インタビュー

 白鳥先生のインタビューののちに別のインタビュー*7で藤井先生は以下のように語っている(2020年9月)。

 ―別のインタビューで以前、次の手を考えるとき、頭の中に将棋盤が出てこないと話していたが本当か。
 頭に盤がないということではないです。ただ、読んでいくとき、頭の中の盤で駒が一手ずつ動いていく感じではないというか。何手か進んで、またその局面を考えるという感じです。
 ―局面を飛ばして考えるということか。
 はい、そういう感じが近いです。
 ―詰め将棋を解くときも同じように考えるのか。
 そうですね。たくさん解いていると、あまり考えていなくても勝手に(手が)進むことがあります。

 これを読むと遠山先生の読みは当っているようである。つまり藤井先生の脳内には将棋盤がある。しかし一手ずつ駒を動かすわけではないので、読みを進める際に使うわけではない。これは、プロデビュー時の次のインタビュー*8を見てみるとよりハッキリとする(2016年11月)。

 ――藤井四段は、将棋の場面を図面で考えるのか、棋譜で考えるのか、どちらのタイプですか*9
 聡太 基本的に、符号で考えて、最後に図面に直して、その局面の形勢判断をしています。

 しかし白鳥インタビューでは「符号で考えているのか?」という問いに対しては曖昧な答えだった。遠山先生の記事にも「符号で考えている」とは書いていない。だが「符号で考える」って一体なんだろう? これは糸谷先生も疑問を呈していた。符号で考えるというのは、文字が浮ぶということなのか、漠然と手が概念で浮ぶのか、なんともいえないのではないか。「符号で考える」というのは、棋士ごとにニュアンスや感覚が違っていて合意が形成されていない話なのだろう。なので「符号で考える」という言葉から実際にどう考えているのかを推測するのは危険である。

羽生先生の感覚

 さて、こちらのブログ記事→「将棋と認知科学」を聞く - 勝手に将棋トピックスによると、羽生先生が「将棋と認知科学」という認知科学会の講演で以下のように語っていたらしい。

頭の中で読み進めるとき、指し手は符号で進み、駒が頭の中で動くことはない。最後に局面を判断するときになって、局面が浮かんでくる。

興味深いことに藤井先生の証言(2016年11月)とほぼ同じである。ここから考えてみるに、藤井先生の言う「読むだけ」というのはつまり「おおまかな形勢判断が必要ない」ということなのではないだろうか。藤井先生の頭の中あるいは語彙では「読む」と「形成判断する」が分かれているのであろう。

 となると藤井先生が驚異的なのは、詰将棋を解くときにもあまり脳内将棋盤を確認しないという点なのであろう。「読むだけ」のときは手が飛び飛びで進み(しかもそれは脳内将棋盤上ではなく符号あるいは漠然としたかたちである)、その手の飛び方の幅が大きいにもかかわらず正確なのだと思われる。

脳内将棋盤の現象学

 現象学というのは、経験に基づいていろんなことを分析する哲学の手法である*10。実は棋士たちの思考法はみんな似通っていて藤井先生だけが特別なわけではなく、いろいろな齟齬が生れている原因は棋士たちが経験を記述する適切な言語を持っていないからなのかもしれない。それは棋士現象学者ではないからである(棋士棋士なのだから当り前である*11)。棋士認知科学者の共同研究はあったが、そこに現象学者を加えてみるとなおおもしろいのではないか。特に「読むだけ」のときの手の浮かび方がどういったものなのかは解明してほしいなあ。

 というわけで、私の乏しい現象学の知識に基づいてこの脳内将棋盤現象に迫る記事をいずれ書きます。

 

 ↓おすすめの詰将棋

 ↓理系学問が好きな人におすすめの学問的詰将棋入門書

 ↓私には難しすぎるけど藤井先生は小学生の頃に解いていたらしい本

 ↓その他

*1:日本将棋連盟 羽生善治×茂木健一郎 特別対談授業「将棋は脳を育てる」 | 頭の中に将棋盤ができて自由に駒が動かせる! | HP運営:決断力DS

*2:子ども向けのイベントなのでこんな口調です。

*3:知覚や想像といった言葉は現象学でよく出てきます。

*4:なぜ藤井聡太はフィクションを超えたのか?【叡王戦24棋士 白鳥士郎 特別インタビュー vol.01】

*5:この記事というのがなんの記事なのかはわかりません。

*6:叡王戦の棋士インタビューで、「わかる!」と共感した藤井聡太七段らの思考法(遠山雄亮) - 個人 - Yahoo!ニュース

*7:振り返るあの一手と自作PCのこだわり 藤井聡太王位インタビュー:東京新聞 TOKYO Web

*8:藤井聡太 史上最年少プロ棋士の覚悟 | Web Voice

*9:このような質問が出るということ自体が将棋関係者の間では符号で考えるのが奇異なことではないという証なのではないかとも思うのですが、糸谷先生の話を聴く限りではそうでもなさそうです。

*10:この定式化は

現代現象学―経験から始める哲学入門 (ワードマップ)

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  • 発売日: 2017/08/05
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

こちらの本によります。

*11:ただし、糸谷先生は現象学の系譜に連なる哲学を研究して修士号を得ているので、もしかしたらわかっていただけるかもしれません。糸谷先生が研究していたのはドレイファスという哲学者についてで、ドレイファスは現象学人工知能の哲学の専門家です。

【エイプリルフール記念】嘘つきのパラドクスについてちょっと勉強しましたよ(発展途上)

※この記事はエイプリルフールのビッグウェーブに乗り遅れないように焦って書いたので、内容が凄くテキトーです。のちのちちゃんと勉強して推敲してアップデートします。

 

 「私は嘘つきです」というやつです。論理学っぽく書くと「この文は偽である」。

(1)「この文は偽である」は真であると仮定すると、この文は偽であることになる。ここでいうこの文というのは当の「この文は偽である」という文のことである。すると「この文は偽である」は真であり、かつ「この文は偽である」は偽であることになって矛盾。

(2)「この文は偽である」は偽であると仮定すると、この文は真であることとなる。ここでいうこの文というのは当の「この文は偽である」という文のことである。すると「この文は偽である」は偽であり、かつ「この文は偽である」は真であることになって矛盾。

というように「この文は偽である」という文は真だとしても偽だとしても矛盾を導く。

 この議論に問題があるとしたら何か。

 まず「すべての文は、真か偽である」という隠れた前提がある。これは当然のようだけれど非古典論理はこういうのを拒否する。真でも偽でもない文を許す論理体系を作ることもできる。

 また「この文」について言及するような文を許してよいのか、という反論もできる。自己言及を禁止するわけだ。そもそも自己とは限らずなんらかの文について言及する文というのは、自然言語というか日常会話ではよく出てくるが、形式論理でどう作ればよいかというのは自明ではない。

 もっとすごい反論もある。そもそも矛盾してもいいじゃないか、ということである。

 これらは論理体系に制限を加えたり真理の定義を与えたりして数理論理学的に解決されるのだが、その背景には「そもそも真理とは?」という永く問われてきた深遠な問いがある。哲学と数理論理学の両面からこれを探究する分野はいまでもそれなりに盛んなようで、これを真理理論という。

 

 というようなことをいちおう書いておきました。

 嘘つきのパラドクスについて勉強してエイプリルフールに合わせて記事を投稿すればアクセス数が稼げるかな〜と思ったけど、他のことをやっていたらぜんぜん進みませんでした。

 いちおう以下の動画を見ました。(動画を見て学んだことのメモは何度も見返して徐々に充実させていきたい。)

京都大学が毎年やっている講義で、昨年からはYouTubeで公開されている。矢田部先生の今年のテーマが嘘つきのパラドクスだった。その1動画ではパラドクス解決のための4つの方針とそのメリット・デメリットが述べられている。

⚫︎古典論理を保持する

・階層的理論:タルスキらの方針。嘘つき文を禁止する。自然言語からかけ離れたものになる。

・ギャップ主義:クリプキらの方針。嘘つき文は真偽が決まらないとする。アドホックな感じ。

⚫︎古典論理を捨てる

・グラット主義:プリーストらの方針。嘘つき文は同時に真でも偽でもある。真矛盾主義という哲学的立場が背景にある。矛盾許容論理というのもあるのでわりといける。そんなのありかよ、という感じは否めない。

・多値論理:多値論理はもともとウカシェヴィッチ。真偽以外に中間的な真理値を導入。ファジイ論理みたいに連続的な真理値を持つのもある。これも、そんなのありかよ感がある。

 個人的に印象に残ったことを書き残す。

  • プリースト先生は空手の達人。
  • ファジイ論理ってなんとなくで真理値を決めるものだと勝手に思い込んでいたのだが、不動点をとることでテクニカルに決めることもできるのだとか。

 つづいてその2。

これはたいへん勉強になった。タルスキのテクニカルな議論をちゃんと踏まえてデイヴィッドソンの真理理論を見るとその方針と問題点がよくわかる。

 タルスキの真理定義であるT-図式と真理述語と階層的意味論の解説がある。それだけにとどまらず「そもそもどういうものが真理定義とみなしうるのか」という哲学面の解説も詳しい。意味論的解決と公理論的解決があって、タルスキによる階層を使った意味論的解決が取り上げられている。これはモデルによって相対的なので実は万能ではない。

 徒然なるままに

  • 自分でタイムスタンプ付きでコメントを書いたけど、55:44あたりからの話が面白い。そもそもなぜ嘘つきのパラドクスは起こるのかということをインフォーマルに解説している。
  • タルスキのオリジナルな定式は充足列というのを使う。これが私にはよくわかっていなくて、清水先生の本にあったはずだから見ておく。

その3。

その2から連続で見ていて、これを見ているときは疲れてきていたのであんまり理解できていません。

 とりあえず徒然なるままに。

  • これも自分でタイムスタンプをやったけど、1:36:20で矢田部先生がなぜ証明論的意味論に目覚めたかを述べておられる。後期型デフレ主義では真理は論理的概念だというが、論理学の教科書では論理的帰結関係は真理値を使って定義される。どうどう巡りである。なので真理値を使わずに論理的帰結関係を定義しなければ、という。

その4。 

これはかなりおもしろかった。あまり形式的な話は出てこない回なので。ヤブローのパラドクスは本当に見事な議論である。

 余帰納法と(強)双模倣性はミルナーらのプロセス代数において重要で、しかし計算機科学でなく哲学的な(邪な)関心から興味を持った私にはよくわからなかったのだけど、少しわかった。強双模倣性は余帰納的に構成されたものの同一性をあらわすのによいとか。また余帰納法がω矛盾を持ち込みがちというのは雰囲気だけはわかったかも。

 徒然

 

 また、『数学における証明と真理:様相論理と数学基礎論*1』という本のなかに黒川英徳先生の「真理と様相」というパートがあって、ここで嘘つきのパラドクスと真理理論のことが解説されている。けどちょっとしか読めなかった。これからです。矢田部先生の講義ではちょっとしか触れられていなかった様相論理を使ったアプローチが紹介されている。本書は様相論理をテーマにした数学基礎論サマースクールの講義録なので。

 この本の最初の「様相論理入門」というパートは佐野勝彦先生が書いている。佐野先生は様相論理と余帰納法と双模倣の関係の研究をされていて、ここにも双模倣の話が出てくる。可能世界意味論はオートマトンみたいなものなので。ただし黒川先生のほうに出てくる様相論理と双模倣にどういう関係があるのかはわからない。

 必然性オペレータ□は、真理の無限性みたいなものを持ち込むものだとかいうことをジラール先生が書いていた。その一端がちょっと見えたような見えないような。